695発目 都会では自殺する若者が増えている話。


夕方の事務所に外回りの営業マンが帰ってきて、こうつぶやいた。

 

「予報通りだな、雨が降って来たぞ。」

 

それとなく窓の外に目をやると、大粒の雨が大量に降っている。

 

「予報通り?」

 

そういえば、今朝はバタバタしていて天気予報を見るのを忘れていた。そもそも息子が学校の行事で道志村に合宿に行くために必要だと言って、折り畳み傘を貸していたので傘がなかったのだ。

 

傘がないからと言って、ずぶ濡れで帰る気はササラない。事務所の隅っこの傘置きに放置されている傘を探す。

 

大きくて黒い傘が一つあった。大きくて黒いということは男性物だと予想される。終業時間を過ぎた今、事務所に残る男性社員は二人。あの二人の持ち物でないのであれば、持って帰っても問題はないだろう。

 

私は念のため女性にも声をかけた。「あそこに置いてる黒い傘って誰のかな?」「私じゃないです。」

 

残った男性二人に向かい声をかける「あの黒い傘、借りてもよろしいですか?」二人とも首肯した。これで雨に濡れずに済む。

 

私は雨に濡れることが大嫌いだ。自分の意志は関係なく濡れるのが許せない。自分から好んで濡れる分には何の文句もない。

 

事務所から地下鉄の駅までは濡れずに行ける。問題は自宅最寄りの駅から自宅までの10分程度の距離だった。地下鉄の駅を降り、改札を抜ける。目の前の大きな出入口から先は、先ほどよりも勢いが弱まった雨が降っている。勢いが弱まったとはいえ、傘を持たない人は躊躇するくらいの降り方だ。

 

駅出入り口の大きな庇の下で、雨足がもっと弱まるのを待っている人も少なからず、いる。かわいそうに、きっとあの人達は事務所の隅っこにホコリにまみれた傘がなかったのだな。

そう思うと、持ち主の分からないこの大きな黒い傘が急激に愛おしくなってきた。

優しく手で愛撫するように傘を撫でる。ホコリをはらってやり、さあ出番だぞ、と勢いをつけ、クルクルと傘を巻き付けているあの、マジックテープのついた紐を外し、束縛から解き放ってやった。

 

バサっと大きな音を立てて、すこしだけ広がった黒くて大きい傘は、愛おしさと別に頼もしくも思える。

 

手元のボタンをカチっと押すと、あとは内蔵されたバネの力で広がるはずだった。だが、長い間放置されていたせいか、動きがスムーズじゃない。途中で開くのを止めてしまった。

愛しい黒くて大きい傘の為だ。ここからは私が力を貸そう。私は右手に力を入れグイっと傘を、その黒くて大きな傘を開いた。

 

ギギギ。 バサ~ン。

 

大きく開いた傘を見上げる。黒いはずの傘から雨空が見えた。 傘の傘たる部分が大きく破れている。骨も折れている。骨の先っぽについているポッチもなくなっている。差しても雨を避けることが出来ないくらいの破損状態だった。

 

傘はダメか。

 

私は仕方なく、事務所の隅っこに傘がなかったチームに加入しようと、出入り口の大きな庇のところに向かった。ところが、事務所の隅っこに傘がなかったチームは、すでに解散していて、メンバーたちはそれぞれ改札横のコンビニでビニール傘を購入して、駅を後にしていた。

 

買うか?

 

否! これしきのことで傘を買ったりすると倹約家の奥様に怒られてしまう。気軽に購入したビニール傘のストックが6本目を超えたあたりから、傘購入禁止令が発令された我が家では、おいそれと傘を買うという選択肢は選べない。

 

避けるか。

 

「避ける?」 一般的に雨が降っていて傘を持ってない人々は、避けるという選択肢を持ってないと思う。

 

ボクサーがジョギングしながら突然降って来た雨を避けていた、という話を聞いたことがある。そんなこと出来る訳ないだろ! しかもヤマシタ、お前はボクサーじゃないじゃないか?とお思いの読者もいるだろう。

 

私はこう見えて、小学生の頃から、あしたのジョー、がんばれ元気、リングにかけろ、はじめの一歩、を残さず読破してきた。リングにかけろにおいては、繰り返し繰り返し読んだので、自分が登場人物の一人であるかのような錯覚すらしている。

 

何しろリングにかけろに登場したフランス代表のナポレオン・バロアはバロア家秘伝のパンチでかまいたちを発生させるのだが、世界最強のギリシャ軍団はこのかまいたちをことごとく避けるのだ。しかも目を瞑って。

 

私はそのシーンをトータルで25回くらい読んでいるから、かまいたちくらいは避けられるようになったのだ。だからこれくらいの雨ならなんということもない。ほぼ完璧に避けて見せよう。

 

大きくて黒い傘を自動販売機が置いている駅の隅っこにそっと置く。「ごめんなまた隅っこに置いて。でもお前が役立たずだから仕方ないよな?」と別れを告げる。きっと、かつて愛した女をボロ雑巾のように捨てる男ってこんな感じなんだろうな?

 

彼女のすがるような声に後ろ髪をひかれつつ、走り去る。そのシーンを頭に浮かべ(既にボクシング云々はどうでもよくなっている)スタートを切った。

 

順調に雨を避ける。頭の部分を右に左にと倒しながら、たまに足を大きく広げ左右にステップしながら、およそ10分弱の時間を自宅まで雨を避けながら走った。

 

玄関でピンポンを押す。奥様が迎えに出てきた。上がった息を整えながら「ただいま」というと、奥様は無言でドアを閉めた。

 

あれ?

 

一瞬の間があって再び空いたドアの向こうではバスタオルを持った奥様が氷のような表情で

 

「ちゃんと拭いてから上がってきてね。傘、持ってなかったん?そんなずぶ濡れになってからに」

 

と言った。

 

あれ?全然よけられてなかったん?

 

ケッキョクズブヌレ

 

合掌

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