父親との思い出というと、あまり良い思い出はない。 やることなすこと気に食わなかったのか、常に怒られていた。 学生服のままタバコを吸うなとか、家の近くでタバコを吸うなとか、俺のタバコを勝手に吸うな、とか。
ただ、不思議と学校の成績が悪いとか宿題をしてないとかで怒られたことはない。 家にこもってじっとしていると、それが勉強をしていたとしても 「若いうちに遊ばないとだめだ」とか「家の中で出来る遊びには限界がある。外に行け」とか、とにかく遊ぶことを推奨された。 「勉強なんていつでも出来る」「今は遊べ」
逆に何か褒められたことってなかったっけ?と思いを過去にめぐらせてみる。 1回だけ褒められたことがあった。後にも先にもその1回だけだ。
高校入試で志望校に合格したときも、大学に合格したときも、就職が決まったときも褒められなかったが、そのときだけは褒められた。
小学校2年生の夏だった。 外はうるさいくらい蝉が鳴いており、表に出ているのは子供たちだけだった。 私は友人と道路でキャッチボールをしていた。 その様子を父親が日陰に座って眺めていた。
「もっと肘を曲げろ」 とか 「左足を前に大きく踏み出せ」 とか 「グラブに入るまでボールから目を離すな」 とか、やたらと口出ししてくる父親に辟易としながらも、たんたんとキャッチボールを続けていた。 私の投げたボールは大きく右に逸れ、ウチの向かいのお宅の生垣に入っていった。 父親を見ると舌打ちしていた。 友人もあきれた顔で、早くボールを取って来いという態度で腕を組んでいる。
私は生垣の外からボールを探す。 ちょうど手の届きそうな位置にボールは、あった。 ヒイラギがびっしりと植えられている生垣に手を突っ込むのにためらいはあった。何しろヒイラギの葉っぱはトゲトゲがある。 葉っぱを避けながらそっと右手を差し込んだ。
そのとき、右耳のあたりでブ~ンブ~ンという昆虫が羽をこすり合わせる音がし、とっさに肩をすくめる。 が、時すでに遅し。 ジクンと電気が走るような感覚が右肩で起きた。
「いてててて~」
その場にへたり込む私に父親は咥えタバコのまま近づいてきた。
「どら、見してみ。」
私は涙をこらえ、さされた右肩を見せる。
「あ~こりゃ、蜂やな。 あ! ほら、ここに足長蜂の巣があるやんか」
父親は家の中に入ってしばらくして戻ってきた。父親を待つ間もじっと激痛に耐えた。戻って来た父親は右手に小さな茶色の小瓶を持っていた。
「ほら、ちょっとTシャツをまくれ。」
私は言われるがまま肩を露出した。 そろそろ激痛に耐えられなくなって来ており、泣いてしまいそうだったが、泣くとまた怒られる。怒られることと痛いのを天秤にかけても痛いほうがましだった。
どぼどぼどぼ。
父親は茶色の小瓶を逆さにし、中の液体を患部にかけた。
「いててて!父ちゃん、何ね、これ?」
「これはアンモニアたい。一発でようなるぞ。」
ジリジリと太陽の日差しが照りつける中、肩の激痛にアンモニアの不快な臭いと、毒に反応した別の痛みが合わさり、泣くことをこらえることで必死だった。 次の瞬間、一瞬だが発火した。 それもそのはず。アンモニアを原液でどばどばと肌にかけるのは自殺行為だ。
結果、私の右肩は大きなやけどを負った。 たかが蜂に刺されただけなのに、広範囲にわたってやけどした。 その後のことはあまり覚えてない。 父親が母親に怒られながら氷の入ったビニル袋を私の肩に当ててくれていた。
母親の父親に対する説教が一通り終わったころ、父親は笑いながら私にこう言った。
「サトル、よう泣かんやったの。えらかったの。」
これが私が父親に褒められた思い出だ。
ずいぶん大人になって父親にこの話をした。 だが、父親は驚愕の事実を私に告げた。
「えらかったっちゅうのは疲れたの方言ぞ。」
何っ!!!!
そういえば、年配の人や山口県の人は「疲れた」のことを「えらい」と言うってことを思い出した。
なんてことだ。 結局あれは褒め言葉じゃなかったのか!
ガックシ
合掌