1
高校生くらいの子供達がなにやら群がっていた。その中心に、うずくまった半裸の人がいた。よく見ると高校生達は、その半裸の人を蹴飛ばしている。
こうゆうのを見過ごせない八島は気がつくと地面を蹴って高校生の集団に向かっていた。八島に対して背を向けている1人の肩を掴むと、ぐいっと引き寄せ大きな声で怒鳴った。
何をやってるんだ!
高校生達はその大きな声と八島が大人であることに恐れをなし、逃げていった。大丈夫ですか?と
地面にうずくまる人物に声を掛けた八島は自分のジャケットをその人に掛けてあげた。
周囲を見回すと、その人物が着ていたと思われる衣服が散らばっていた。八島は立ち上がって衣服を拾う。衣服からは異臭がした。その異臭は、もう何年も風呂に入ってない人のそれと思われる臭いだった。ホームレスか?八島は衣服を指でつまみうずくまる人物の元へ戻った。 顔は垢で真っ黒だがかろうじて男性だと言うことは分かった。裸にされた上半身はあちこちに擦過傷がみられたが、それよりも驚いたのはでっぷりと太っていたことだった。
こんなに太ってるっていうことは、ホームレスじゃないのか?男性が起き上がって八島にお礼を言った。八島は男性に尋ねた。
『一体、何があったんですか?』
男性はまだ恐怖におびえているのか小刻みに身体を震わせながら周囲を見回した。
『あの、高校生達は?』
『ご安心下さい。蜘蛛の子を散らすように逃げていきましたよ。』
『蜘蛛の子?』
『ええ。蜘蛛の子です。散らすように・・・』
『蜘蛛の子を散らしたことがあるんですか?』
男性が奇妙な質問を投げかけてきた。
『いえ、それは・・』
『そもそも蜘蛛の子を見たことがありますか?』
八島は困惑した。やっかいなヤツにかかわってしまったんじゃないか?早く、ジャケットを取り返しこの場を去ろう。八島は自分のジャケットに手を伸ばした。男性はビクっと身体を硬直させ座ったまま後じさりした。
『何をするんですか!』
『いや、ボクのジャケットを返してもらおうと思って。』
『コレはあなたのジャケットですか?』
『そうです。あなたが裸だったので着せました。こちらがあなたの衣服です。』
そう言って八島は先ほど拾い集めた衣服を男性に差し出した。男性は八島のジャケットを脱ぐと自分の衣服に袖を通しすっくと立ち上がった。立ち上がると男性は八島に深々とお辞儀をし
『大変助かりました。ありがとうございます。このお礼をしたいのであなたのお名前と連絡先を教えて
いただけますか?』
と、言った。八島は逡巡した。変な人だなぁ。こんな人に連絡先を教えたらまずいことにならないかな?
だが、八島は自分の名刺を差し出した。男性は名刺を受け取ると『亀です。』と言った。
『へ?』
『亀です。また会いましょう。』
そう言ってぽかんと口を開けた八島をそこに残し男性は去って行った。
2
奈津美は縁側に立つ夫を見ていた。さっきからずっと片手に湯飲みを持ったまま、そうやって立っている。奈津美にとって、夫の言動はまるっきり興味が無かった。すでに夫婦としての関係は終わっている、と奈津美は思っていた。子供達も二人とも結婚し、親としての大役は果たした。あとは、このまま死ぬのか、それとも もう一度この人と残りの人生を楽しむのか。 後者を選ぶことはないな、とあらためて思った。奈津美の夫はいわゆる亭主関白で、目の前にある醤油でさえ自分でとろうとしない人だった。
子育てでさえ、奈津美にまかせっきりで、ちょっとでも文句を言おうモンなら『俺は外で戦ってるんだ!家のことはお前に任せると言ってあるだろう!』とすぐに大声で反論する。
それでも子供達のことを思い、この30年間は耐えた。4年前、下の娘が嫁いだ頃から夫は抜け殻のようになり、今のように、ぼうっと過ごすことが増えている。娘は結婚式で両親に手紙を書いてくれた。それを披露宴で読み上げたとき夫は泣いていた。
思えば出会ってから30年間で彼が泣くのを初めて見た。その瞬間はさすがに奈津美も少しほだされた感じもしたが、こうしてまた普段の生活に戻るとやはり夫が何を考えているのか分からない。夫は3年前に定年退職した後も知り合いの伝手で仕事を見つけてきたので、平日は奈津美は家で1人で過ごす。土日に夫がいることを除けばいたって幸せで平凡な生活だった。だから、まあいいか、という気持ちのままずるずる来ている。
『どうなるのかしら・・』
奈津美はふと、堺のことを思い出していた。堺との出会いは15年前にさかのぼる。駅前の喫茶店でマスターをやっている堺は、謎が多かった。時々、海外にも行っているようだった。堺は趣味が旅行だと言っていたが喫茶店ってそんなに儲かるのかしら?ウチなんて新婚旅行以来、海外なんて行ってないわ、と堺の暮らしぶりに疑問を持たざるを得ない。
『おい、ウチの屋根裏には、くもの巣は張ってるか?』
突然、夫に話しかけられた奈津美はその質問の意図がつかめなかった。あっけに取られる奈津美の顔をみつめ、夫はもう一度同じことを言った。
『くもの巣だよ。どうなんだ?』
『ええ、多分、張ってると思いますよ。屋根裏なんて家を建ててから一度も掃除したことなんて無いですから。なんですか?急に。』
『いや、いい。忘れてくれ。』
それが夫と交わした最後の言葉だった。
3
清宮に呼び出された堺は川口へ車を向けていた。電話の口調からすると嫌な予感が拭い去れない。杞憂であってくれと願うばかりだった。清宮宅に到着した堺は玄関まで出迎えに来てくれた清宮の表情を見て嫌な予感が当たったことを知った。
『どうなさいました?』
『とにかく上がってくれ。』
書斎に入ると清宮は内線電話でしばらくは誰も入室させるな、と指示し、堺にソファーに座るように言った。堺の向かい側にどっかと腰を下ろした清宮は、深いため息を一つ、つくとぽんと封筒をテーブルに置いた。
堺はその封筒を開け、中の便箋に目を通した。そこには清宮が行ってきた政治献金や裏取引など悪事と言う悪事の全てが詳細に記述されていた。
『いったい、誰が?』
『分からん。私と君しか知らないようなことも調べ上げている。』
そう言って清宮は堺をちらっと見た。
『ま、まさか私を?』
『いや、君の事は信じておるよ。君が私を裏切っても何のメリットも無いことくらいわかってるだろ?』
『で、どうします?』
『差出人を突き止めろ。アイツは動けるのか?』
『サカナは常に指示を待っていますよ。ただつい先月ですが対抗組織に狙われたばかりです。』
『とにかく差出人を突き止めろ。』
清宮は話は以上だと言わんばかりに部屋を出て行った。堺は清宮の家を出るとその足で池袋へと向かった。東口の地下通路を通りエスカレーターで地上に上がったところに公衆電話ボックスがある。そこに堺は何も書いてないピンクの付箋を貼った。サカナから堺へ電話があったのはその日の深夜だった。
『付箋が貼っていた。』
『そうだ。ある手紙の差出人を突き止めて欲しい。』
『始末もするのか?』
『いや、とりあえず突き止めるだけだ。』
『ソレは俺の仕事ではない。それにはそれの担当がいるだろうが。餅は餅屋って言葉を知らないのか?』
『今日はよくしゃべるじゃないかサカナよ。先月、得体の知れないやつに襲われたんだろ?それで慎重になってるのかい?正直に言えよ、油断してたって。』
『確かにあの時は油断していた。だが、あの件は全て片付いている。』
その後の報告で、サカナは自分を襲った実行犯と、ソレを指示した組織のトップ3のメンバーを全員、始末した、ということを堺は知っていた。
結果的にその組織は壊滅し清宮の抵抗勢力が一つ減った。
『亀を使っていいか?』
サカナが誰かと組んで仕事をすることは珍しい。
『亀?亀と組むのか?やっぱりお前はサカナだな。海の生物としか組まないんだな?』
『あいつは人探しの天才だ。』
『任せるよ。しくじるなよ。で、いつまでにいい知らせを受けられる?』
『いい知らせかどうかは分からねえが、10日後には報告するって。』
『分かった。じゃあ10日後に。』
電話は切れた。
堺は大きく息を吐いた。サカナとは15年の付き合いになるが、怒らせるととても厄介だと言うことは知っていた。だから、軽口を叩いてはみせたものの内心はひやひやしていた。とにかく10日後までは気が抜けない。
堺はもう一度大きく息を吐いた。
4
サカナは池袋駅コンコースにいた。土曜日の池袋駅は若者でごったがえしているが、人ごみに紛れるのはサカナの得意なことの一つだった。西口公園へと続く地下通路から地上へ上がる階段の脇にあるコインロッカーに向かった。 前の日に宅配業者を装った若者が鍵を届けにサカナの会社へ来た。 若者は堺が雇ったアルバイトで、堺とサカナとのパイプ役でもあった。
サカナは他の書類と一緒に小さな封筒を受け取った。中には鍵が入っている。サカナは青年にうなづくと、中身の鍵だけをポケットに入れた。
コインロッカーから荷物を出す姿は誰に見られても疑われることはないが、サカナは念のため周囲に気を配り尾行や見張りがいないことを確認してからロッカーに近づいた。 つい先日、油断して襲われたことが教訓になっていた。 ロッカーの中には茶封筒が入っており中には清宮の悪事を暴く手紙が入っているはずだ。だがここで封を開けるわけにはいかない。 サカナは封筒を鞄に入れるときびすを返し東口に向かった。
東口を出て横断歩道を渡ると大手都市銀行の青い看板が見える。その右隣にある果物屋の2階にフルーツパーラーがある。サカナは迷わずその店に入ると窓際に座る男に近づいた。そっと茶封筒を男の前に置き、自分はその男の背後に座った。 店員が注文をとりに来る。サカナはコーヒーを注文し、鞄からスポーツ新聞を取り出した。 店員が下がったのを見計らい後ろの男に話しかける。
『亀、この手紙の差出人を探して欲しい。』
『手紙だけで探すのかよ?』
『手がかりはソレしかない。』
『たったそれだけで見つかるわけがねえじゃねえか。』
『お前にしか出来ない。』
『自分でやれよ。オレは疲れてるんだよ。』
『もう一度言うぞ。お前にしか出来ないし、俺はお前を信頼している。』
『オレは亀だからよ、ゆっくりやるぜ?いいんだろうな。』
『大丈夫だ。ゆっくりやれ。後ろからウサギが追っかけてくることも無い。』
『何だよ?ウサギって?あんたと同業者かい?』
『お前、ウサギと亀って話を知らないのか?』
『知らねえよ。何だよソレ?』
『まあいい。とにかく頼んだぞ。先に行け。』
亀と言われた男は席を立ち、立ち去った。 サカナは亀とのやり取りが好きだった。年齢は恐らく亀の方が随分下のはずだが亀はサカナに敬語を使ったことが無かった。 一度、その事を指摘したら亀はこう言った。
『サカナに敬語を使うやつを見たことあんのか?釣られてくれてありがとうございますって?刺身さん、お醤油かけてもよろしいですかって? 変態じゃねえか!』
サカナは運ばれてきたコーヒーを飲み干すと、店を後にした。亀は口は悪いが仕事は正確だ。
亀は電車の中で封筒に入っている手紙を全て読んだ。 3回読んだ。 確かに手がかりは少ないが、ゼロという訳ではなかった。 亀が目をつけたのは、この清宮という男が政権与党の大物とホテルで密会しているということを指摘している記述だった。
「このホテルに行ってみるか。」
亀は一度自宅に帰るとスーツに着替えた。それから電車で赤坂まで向かった。 地下鉄虎ノ門駅を降りると国道1号線を神谷町方面へ歩き、虎ノ門3丁目の信号を右に折れる。 あたりはすっかり真っ暗になっていた。上り坂を登り終えると大きなホテルが見えてきた。エントランスの車寄せのところには警官が3人立っていた。その脇を亀は通り抜ける。
エントランスに入りぐるりと周囲を見回す。 ドアボーイが丁度、交代の時間のようだった。 同じような制服を着た男と お疲れ様です、と言葉を交わしている。 スタッフオンリーと書かれたドアを開けようとしているドアボーイを亀は呼び止めた。 防犯カメラから死角になる場所を選んで、手招きする。
『はい、お客様。 いかがなさいましたか?』
『ちょっと教えて欲しいんだけどよ。中華料理のレストランで待ち合わせなんだよ。 どこにあんの?そのレストラン。』
『はい。桃花林でらっしゃいますか?それでしたら別館の12階にございます。』
『いや、そんな名前じゃなかったなぁ。』
そう言って亀はメモをポケットから出してドアボーイに見せた。
『コレだよコレ。何て読むんだ、コレ?』
『ああ、花梨ですね。 花梨なら確か、当ホテルではなくて、インターコンチネンタルホテルさんじゃないでしょうか?』
『あれ?ここインターコンチネンタルじゃないの?参ったなぁ。 どこにあんの?そのインターコンチネンタルって?』
ドアボーイは こちらへどうぞ、と亀を外に連れ出した。 エントランスから前面道路まで亀を連れて行き、坂の上を指差して亀の方を振り返った。
『あそこに見えてるのがそうです。』
『おお、ありがと。』
そういって亀はドアボーイの首筋のところに手刀をお見舞いした。 ドアボーイはウッと唸ってその場に倒れたが亀が脇を抱えてそのまま茂みのほうへ連れて行かれた。 亀は急いでドアボーイの制服を脱がせると今度は自分のスーツをドアボーイに着せた。 念のため睡眠薬をしみこませたタオルをもう一度ドアボーイの口に近づけておいた。 これで2時間は目を覚まさない。人目につかない場所に横たわらせると亀はドアボーイの格好でホテルに戻り、スタッフオンリーのドアを開けた。
5
スタッフルームから何気なく出てきた亀は、そのままホテルを出て虎の門駅へ戻った。虎の門駅からJR新橋駅に向かう途中にあるインターネットカフェに立ち寄ると、ポケットからUSBメモリーカードを出し、パソコンに差し込んだ。
先ほどのホテルの防犯カメラ映像だった。エントランスに清宮が映っているところまで早送りをし、そこからはゆっくりと再生した。 清宮はカウンターでチェックインをしているようだ。 怪しい人影は見えない。そのまま清宮はエレベーターの方にフレームアウトしていった。
しばらくは早送りしながら進めた。1時間ほど進んだところで怪しい人影を見つけた。野球帽をかぶって肩からカメラをぶら下げている。亀はモニターの右下に表示されている時間を確認した。素早くそれをメモすると、また早送りを始めた。一通り見終わったが怪しい人影は、あの野球帽のカメラ野郎だけだった。
亀はインターネットカフェを出ると、もう一度ホテルに向かった。 カウンターで黒い手帳を出し、受付の女性に話しかける。
現在、警察では身分を明かす際に昔のテレビドラマのような黒い手帳を出すことはしない。よっぽどのことがない限りは、名刺を出してくる。そして、個人情報の開示を求める書類「例外扱い申請書」というものを出してくる。黒い手帳で「警察だ」という警察はいない。
だがやはりテレビドラマの影響なのだろう、受付の女性は亀が扮した偽警察にすっかり騙され、亀が渡したメモの日時に宿泊した全員の名簿を出してきた。亀は礼を言ってその場を立ち去り、自宅へと戻った。
リストにはおよそ400ほどのデータが羅列してあった。だがあの野球帽が宿泊とも限らない。 だが亀はリストの上から5番目に記載された名前を見て嫌な予感がした。
奈津美は、息子から電話があったことで、浮かれていた。土日に夫と二人きりにならなくて済むし、何より息子が連れてくる孫に会うのはとても楽しみだった。 昼前には到着するらしいからお昼の準備をしておかなければならない。奈津美は夫に留守番を頼み、駅まで買い物に来た。
駅の所で声を掛けられた、奈津美はその相手が堺だと分かって安堵した。
「お久しぶりです、八島さん」
堺は屈託の無い笑顔で話しかけてくる。
「息子家族が週末に遊びに来るので、買出しに来たんです。」
奈美恵は聞かれても無いのに答えている。久々に見る堺は相変わらず魅力的だった。奈美恵よりも一回りくらい若い堺は胸板も厚く背も高い。男らしい体躯とは対照的にまつげが長く女性的な顔立ちというギャップが奈美恵の心を惹いた。 今風の言葉で言うと『萌え』たのだ。
「今日はお店を開けないんですか?」
「そうなんですよ、申し訳ありません。喫茶店なのにコーヒー豆を入荷し忘れてて。致命的ですよね?在庫であるのは不味いコーヒー豆だけなんですよ。 それだと店を開けるわけにはいかないんですよ。ラーメン屋なのにラーメンが不味くてチャーハンが人気メニューだったらがっかりでしょ?」
「何をやっとるんだ?」
突然の声に奈津美は振り返った。そこには夫が立っていた。
「あ、あなた。 こちらは私がよく行く喫茶店のマスターの堺さんよ。」
堺は奈津美の夫をじっくりと観察した。
「ほう。あなたが八島さんですね?」
「そうですが、妻がいつもお世話になってます。ほら、行くぞ」
「また、お会いできますかね、八島さん?」
「いえ、失礼します。」
奈津美は困惑した。夫が自分の手を引っ張っている。まるで堺から引き離そうとするかのようだ。もしかして嫉妬してるのかしら?奈津美は不思議な気分だった。
「あの男のことはいつから知ってるんだ?」
「もう15年くらいになるかしら・・」
「その頃から監視してるのか!」
「監視って?」
「いや、いいんだ。分かった。帰るぞ」
奈津美はそれ以上を夫に聞けなかった。
6
亀が持ってきたリストは上から5番目にシルシがつけてあった。サカナは満足そうにうなづくと、タバコに火をつけた。池袋のフルーツパーラーに二人は来ていた。前回同様、背を向け合って座る。
「意外と早かったじゃないか?」
「知ってるか?そこに書いている男を?」
「オレは知らない。だがそうだな、雇い主なら知ってるかもな。」
「サカナよ、お前を雇ってるヤツはあれだろ?喫茶店のマスターだろ?」
ほとんど表情を変えずにいたつもりだったが、ほんの僅かな変化を亀に見抜かれた。背中で気配を感じ取られたのだ。
「やっぱりな。おい、報酬をよこせよ。 オレはこの件からはもう下りるからな。あとな、言っとくけどお前がやられることは無いと思うけど、手を焼くと思うぜ。」
「なんだ亀、お前リストの男を知ってるのか?それとも堺のことを言ってるのか?」
「マスターのことはどうでもいいんだよ。」
「リストの男がどうした?まさか、同業か?」
「ウサギって聞いたことあるだろ?」
「ああ、耳の穴から針を入れて殺す奴だろ?随分前に聞いたけど、実在すんのかよ?すげえ噂ばっかで信じられないくらいだよ。」
「ウサギは実在するに決まってるじゃねえか! サカナ、お前だって信じられないくらいのエピソードをたくさん持ってるじゃねえか。しかもお前は実在している。 いいか?ウサギは実在するんだ。」
「オレが負けるっていうのか?」
「近づかれなかったらお前の勝ちだろうな」
サカナはしばらく亀に背を向けて考えた。 物音がしたので振り返ったら亀はいなくなっていた。
ウサギの噂は今までにもたくさん聞いた。サカナがこの稼業に就いたときに仕事を取り次いでくれてた箱という男が、酒に酔うといつも言っていた。
「ウサギさんはよ、すげえんだよ。黙ってターゲットに近づくとよ、すっと針金みてえなヤツで耳の穴を刺すんだよ。先っぽには検出されない毒が塗ってあってよ、相手は傷みも感じずに死ぬんだぜ!」
「ウサギにさん付けしてんじゃねえよ。せめてウサちゃんって呼んでやれよ。」
「バカ野郎!お前はウサギさんのすごさが分かってない! そんな生意気な口を利いてるといつかウサギさんにブスっとやられるぞ」
このリストの上から5番目の男がウサギだと言うのか?サカナは考えたが、答えは出なかった。まあいい。サカナはターゲットに忍び寄り引き金を引くだけだ。飲みかけのコーヒーを飲み干すとサカナは店を出て堺に連絡した。
3日後、堺から指示が来た。やはりリストに載っていた男がターゲットだった。が、あの時、サカナが見た名前と堺が指示してきた名前が違っていた。
「ああ、あれは偽名だ。そこに書いているのが今、ヤツが使ってる名前だ。ま、それも偽名だろうし本人も自分の名前なんて分かってないんじゃねえか?」
「あ、そういえば亀が言ってたぞ。堺なら知ってるだろうって。堺は知ってんのか?こいつ、ウサギって殺し屋だろ?」
「なんだ、サカナ。ウサギを知ってんのか? そうだよ。オレが知ってる限り、もっとも危険な男だよ。仕事の成功率が100%なんだよ。分かるか?100%だぞ。一度もミスをしてねえんだぞ」
「簡単な仕事ばっかりやってるからだろうが。お前が知らねえだけでどっかで失敗してるかもだろ?おおげさなことばっか言ってんじゃねえよ。何だよ成功率って?誰が統計取ってんだよ?」
「お前は本当にバカだな、サカナ。まあいい、とにかく俺の監視の結果とウサギの行動とは裏が取れたから今から行ってサクっと始末して来いよ。報酬は、ほい、これな。残りは終わってからだ。」
「何がサクっとだよ。バカ野郎。人殺しをすんだぞ。簡単に出来るかよ!しかも相手は凄腕のウサギちゃんらしいじゃねえか。報酬もコレじゃ少ねえよ。」
「分かった分かった。清宮さんに言っとくよ。なんだよサカナ、お前にしちゃ珍しく金を欲しがるじゃねえか。釣竿でも買うのか?」
「そんなもん会社に行けば捨てるほどあるんだよ。まあいいや。とりあえず今日から取り掛かるからな。ウサギのヤサの近くに監視所を用意しとけよ。今晩から始めるよ」
「監視所はもう用意してるぜ。ほらよ。」
堺はメモと鍵を渡すと立ち去った。サカナは早速、道具を車に積み込み監視所に向かった。 監視所は清瀬駅から歩いて15分くらいのところに建つ、目立たないアパートだった。 アパートの窓からそっと覗くとウサギが住んでいる家が見えた。 普段は普通のマイホームパパをしているようだ。サカナと同様、ヤツにも裏と表の顔がある。 サカナは今回、九州の実家に帰る口実で翌週の月曜日に有給休暇を取った。ウサギを仕留めるのにサカナに許された時間は3日間だった。土曜日から始めて火曜日には会社に行かなければならない。 まあ、3日もあれば十分か、と軽く考えていた。
監視一日目の夜、ウサギが駅の方へ歩いて行くのが見えた。 サカナは早速、尾行を開始した。
息子家族を囲んでの夕食は奈美恵にとって幸せな時間だった。食事が終わると孫がフルーツを食べたいと言っていた。夫が買って来てやると、珍しく自分からお使いをすると言い出した。奈津美は玄関まで夫を見送りに出た。
「おい、ウチの屋根裏には、くもの巣は張ってるか?」
夫は奇妙な質問をし、財布を奪うように奈津美から取り上げると玄関を開け出て行った。リビングに戻ると息子が話しかけてくる。
「父さん、珍しいね。お使いに行ってくれるなんて。」
「でもね、変なのよ。今、出掛けに、ウチの天井裏にくもの巣は張ってるか?なんて聞いてくるの。なんのことかしら」
「ああ、オレも最近さ、奇妙な出来事があったんだよ。仕事で外回りしてたらさ、公園で高校生達がホームレスをいじめてたんだよね。そんでさ、こらーって怒ったら、そいつらくもの子を散らすように逃げていったんだよ。 言うよね?くもの子を散らすって。 そしたらそのホームレスがさ、くもの子を見たことあるかって聞いてくんだよ」
「何ソレ?気味の悪い話ね。 あんたも気をつけなさい。薄っぺらな正義感出したりして逆に高校生に刺されて死んだなんてことになったら泣くに泣けないわよ。」
「大丈夫だよ、正義感は父さん譲りだからさ。今更、なおんないよ。」
奈津美は笑っていたが悪い予感がしていた。 夫が出かけてから20分後、隣の奥さんがインタホンを鳴らしてきた。テレビモニタで確認した。
「どうしたの?奥さん、こんな時間に」
「ちょっと八島さん!おたくの旦那さんが!」
奈津美は玄関を飛び出した。 門柱の横には夫が倒れていたが一目で死んでいるのが分かるほどだった。眉間のところに直径2センチほどの穴が開いており、そこから血が流れていた。眼は見開かれている。 どうした?と息子が出てきて異変に気付く。 奈津美は薄れ行く意識の中で、息子が父さん父さんと叫ぶ声を聞いていた。
7
慎重になっていたが、心のどこかで油断していたのだろう。背後から忍び寄る気配を察知した時には、遅かった。鉄製の網のようなものを頭からすっぽりと被らされ、あっという間に口に両手を拘束された。
「お前、ウサギって言うらしいな?やっぱウサギを捕まえるときは網じゃねえとな。雰囲気がでねぇ。亀が言ってたぜ。近づかれなけりゃお前に負けることはねえってよ。」
薄暗い路地で後ろ手にされたウサギは黙ったまま男を見上げた。
「清宮か?」
かろうじてその一言を発したウサギは、行った後に気が付いた。こいつは何も知らされてない実行部隊で雇い主のことなんか知りもしないんだろうな、と。 だが驚いたことに男は雇い主について知っていた。
「ああ、スポンサーだろ? 多分な。そいつが喫茶店のマスターに頼んで、マスターが俺に頼んだってわけだよ。悪いけどよ、どうやらお前は知らなくていいことを知りすぎたみたいだぜ。残念だな。」
「どうやって私にたどり着いた?」
「亀が探してくれたよ。」
「そうか。あいつは優秀か?」
「ああ、お前のことも3日くらいで見つけてきたぜ。 あ、そういえばお前、箱ってやつ知ってるか?」
サカナはそう言ってウサギの顔を覗き込もうとしてしゃがんだ。
「ああ、それにしてもよくしゃべる男だな君は。」
「うるせえな、分かったよ。おしゃべりは止めだ。今・・・」
ウサギは口の中に仕込んでいた針を網目の隙間からサカナの左目めがけて吐き出した。
サカナは避けることができなかったが、その瞬間にはウサギの眉間に向けて銃弾を1発、打ち込んでいた。ぐったりしたウサギの頸動脈に手を当て脈がないことを確認し、左目に刺さった針を抜いた。亀の言う通りだった。油断すべきではなかった。ひとまずサカナはカバンから解毒剤を取り出し飲んだ。サカナは動かなくなったウサギを抱え上げると停めていた車に乗せ、ウサギの自宅の前で放り出した。
八島家の玄関前は警察とマスコミでごった返していた。静まり返った住宅街は騒然となっていた。すでに主人の遺体は警察が運んで行ったが現場検証は続けられていた。リビングで奈津美と奈津美の息子は警察から事情徴収を受けていた。一通りの聴取が終わると警察は帰って行った。それでもまだ外は騒がしい。奈津美の息子は玄関から外に出て、集まった人々に対して深々と頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。たった今、事情聴取が終わりました。どうぞご近所のご迷惑になるので今日のところはお引き取りください。」
頭を上げたところで、右の方の視界の奥に見覚えのある男の姿が見えた。誰だかは思い出せなかった。マスコミの連中はライトを消し撤収作業に取り掛かりだした。それをみたやじ馬たちもポツリポツリとその場を離れだした。玄関の方から奈津美の声がした。
「秀行、大丈夫?」
「ああ、母さん。もうみんな帰りだしたよ。母さんも疲れたろ?今日はゆっくり寝るといいよ。」
「寝れるわけないじゃない。それよりもあなたに話しておかなきゃならないことがあるの。」
「何?父さんのこと?」
「そうよ。とりあえず中に入って。」
その時、玄関の外の下屋のところに蜘蛛の巣が張っているのを見つけた秀行は、先ほどの男を思い出した。急いで振り返ると、奈津美にすぐ戻るとだけ言って走り出した。先ほどの場所にまだ男は立っていた。
「はあ、はあ、はあ。」
「や、やあ。お久しぶりです。あの時は助けてくれてありがとう。」
「やっぱ、そうか。亀さん、だよね?」
「はい、ウサギさんは死んでしまったんですか?」
「ウサギさん?」
「あなたのお父さんです。」
「え?ウチの父のことを知ってるの?君は一体、誰なんだい?」
「あなたは何も知らないんですね。分かりました。今日は遅いのでまた私があなたの前に現れます。その時にすべてお話しします。」
そう言って、あっという間に亀はいなくなった。 しかたなく家に戻るとリビングでは母が待っていた。
「警察から電話があったわ。司法解剖からお父さんが戻ってくるのは4日後らしいの。だからお通夜と告別式はそれからね。」
「ああ、母さん、さっき言ってた話って?」
「喪主は私じゃなくてあなたにやって欲しいの。」
「どうして?ふつうは母さんがやるもんじゃないの?ま、別に俺がやってもいいんだけど。」
「実はあなたと私は本当の親子じゃないの。お父さんと私は再婚同士なのよ。ずっと黙っててごめんなさい。お父さんは私には、はっきりと教えてくれなかったけど、あなたの本当のお母さんは、あなたを生んですぐに亡くなったらしいの。」
秀行は言葉が出なかった。 なにもかも分からない事だらけだ。父が死んで悲しむより、父が死んだことで色々な事実が発覚し、訳が分からなくなっている。鍵を握っているのは亀だ。秀行は亀に会いに行く決心をした。彼なら何か知っているだろう。 そういえば、さっきは父のことを「ウサギさん」と呼んでいた。何なんだ?一体。 何が起こってるんだ? 目の前でひれ伏して泣いている母親を抱き起こし、かろうじて言えた一言はなんとも虚しい一言だった。
「ボクの母さんは母さんだけだよ。」
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「終わりました」
堺が一言いうと電話は切れた。大きく息を吐いた堺はサカナに電話した。
「報酬はどうする?今日、取りに来るか?」
「それどころじゃねぇよ。」
「どうした?いつもなら眼の色変えて飛んでくるじゃないか?」
「人を金の亡者みたいに言ってんじゃねぇよ。相打ちだよ相打ち。ウサギの奴、両手縛り上げられてるのにオレの目ん玉に毒針を飛ばしてきやがったんだよ。」
「でも生きてるじゃないか。」
「とっさに解毒剤を飲んだからな。箱にウサギの手口を聞いてて良かったよ。あ、それとよ、残りの報酬は亀に取りに行かせるからよ、いつもみてえにピンクの付箋を貼っといてくれよ。」
「なんだ?お前、亀のことを使い走りにしてんのか?いい身分だな、おい。まいいや、オレも来週から香港だから明日までに済ませときたいんだよ。明日、連絡するからな。亀さんにもそう言っておきな」
電話を切ったサカナは両手を縛られたまま亀を見上げた。
「のろまな亀ちゃんにオレがやられるとはな。」
「箱ってのはあの箱か?前にお前を拉致しようとした?お前がつぶしたんだろ?あの組織はよ?」
「よく知ってるじゃねぇか。箱の奴はウサギちゃんを尊敬してたんだよ。いっつも酔うとすげえすげえって言っててよ。」
「お前、ウサギさんのことは知らねえっつってたじゃねえか。まあいいや、とにかくお前はここで終わりだよ。殺っちゃだめな人を殺ったんだ。地獄で後悔しろよ。」
「待て。最後に一つだけ教えてくれ。誰に頼まれた?」
「蜘蛛の子だよ」
八島はもう一度亀と出会った公園に来ていた。亀は向こうから会いに来ると言っていたが八島は待っていられなかった。ベンチに座りぼんやりと父親のことを思い出していた。小さな頃の記憶はないが、家族で旅行に行ったりしたことは確かになかった。運動会や卒業式にも出てくれなかった。でも八島は父親が大好きだった。
「暴力は絶対にダメだ。暴力は相手の自尊心を削り取る最低の方法だ。だからお前は暴力を使わずに問題を解決する方法を学ぶんだ。」
父親の口癖だった。八島は父親の喋り方や独特な表現方法が大好きでかなり自分も影響を受けてると思っている。そんな父親が死んだ、その事実を受け入れることが出来なかった。気がつくと涙が溢れていた。もっと父親に色々教えてもらいたかった、もっと話したかった、自分の未来に光をともして欲しかった。溢れる涙をぬぐおうともせずに1人ベンチで泣いた。
となりに人の気配がしたので、慌てて涙をぬぐった。そこには清潔そうなスーツを着込んだ亀が座っていた。あの時のような異臭もしない。
「亀さん・・・」
「あなたが知りたがっていることを全て話します。と言っても私の知ってる範囲ですがね。」
「教えてください!お願いします!」
「あなたのお父様は我々の業界ではウサギと呼ばれてました。あなたのお母さんはあなたを生んですぐに対抗組織の巻き添えで亡くなりました。それまではウサギさんは調査専門だったんですが、あなたのお母さんの仇をとるために実践の世界に足を踏み入れたのです。もともと才能があったウサギさんは対抗組織に見破られないように別の家庭を隠れ蓑として用意しました。」
「それが今の・・・」
「そうです。今のお母さんにもウサギさんは本当のことを話してません。秀行さん、ウサギさんはあなたのことや今のご家族のことを心底 愛してました。私との間で決めていたことが一つだけありました。」
「母さんが本当の母さんじゃないってのは、直接 母さん本人から聞きました。ショックでしたが、それよりも僕にとっては父さんが死んだことの方が受け入れられなくて・・。決めていたことって何ですか?」
「暗号と言うか、合言葉みたいなものです。」
「何ですかそれは?」
「ウサギさんが仇を討とうとした相手は想像以上にでかい組織でした。もしかすると仇を討つ前に自分がやられるかも知れない、とそうおっしゃってました。」
亀はハンカチで手のひらの汗を拭いた。大きく息を吐くと続けた。
「蜘蛛の子を散らすって故事があります。知ってますよね?」
「ええ、僕が亀さんと初めて会ったときに、確か・・」
「あなたの口からその言葉が出たので驚きました。ウサギさんと決めていたことがそれなんです。」
「どういうことですか?」
「対抗組織は常にウサギさんを監視していました。だから相手に悟られずに色々なことを実行しなくてはなりません。そのために一つだけ決めていたのはウサギさんにもしものことがあったときに私が八島さん家族を守るという約束です。」
「聞きたいことがありすぎるんだけど。」
「池袋の家電量販店に行くとテレビがたくさん並んでるでしょ?あそこに蜘蛛の子供が逃げて行く動画を流すんです。それが合図です。逃げろ!という意味でそうしました。そしてあの日、つまり私があなたに会いに行った日、その動画が流されました。」
「あの日って、いつですか?親父がしんで野次馬が家の前に集まっていたあの日ですか?」
「いえ、この公園です。私がいきなり近づいてもあなたは私の話を信用しないだろうから、高校生にいじめられるという方法を取りました。」
「でも僕が助けるとは限らないじゃないですか?」
「あなたは必ず助けるはずでした。ウサギさんはいつもおっしゃってました。あいつの正義感はオレなんかよりはるかに強い、と。」
八島は涙が溢れた。父親が自分のことをそんな風に思っていてくれたのが嬉しかった。
「あの数日前、私はある人からの依頼で人探しを請け負いました。依頼主が探してた人のリストを見つけた私はそのリストを依頼主に持って行こうとしました。そこに載っていた名前は以前、ウサギさんが使っていた名前だったのですが、確信がなかったから直接本人に聞いてみました。依頼主は知らないと言ってました。ウソをついている風でもありませんでしたし、依頼主には更に別の依頼主がいるような口ぶりでした。そして私は少し鎌をかけました。」
八島は父親が死んで悲しい気持ちと、父親が自分の認めていてくれた嬉しい気持ちの間で情緒が不安定になっていた。加えてこの亀の話を聞いているととても現実の話とは受け止めがたかった。
「あの、もしかして亀さんは父を殺した人を知ってるんですか?」
「はい。サカナという男です。私は鎌をかけました。そのリストの名前がウサギさんだったら、お前の方がやられるぞ、と。でもサカナは本当に知らない様子でした。それと私は本当にウサギさんがサカナにやられるとは思わなかったのです。私のミスです。お父さんが亡くなったのは私のせいなのです。」
「いや、亀さんは悪くないよ。確かにそのリストをあなたがサカナという人に持っていかなかったら父は死なずに済んだかもしれない。でも今の話を聞く限り、いずれは殺されてたんじゃないかと思うんだ。ひとつ聞きたいんだけど、いいかい?」
「はい何でしょうか?」
「亀さんとうちの父とはどういう関係なんだろうってさっきからずっと思ってたんだ。」
「私はウサギさんの弟子でした。10年ほど傍で働いていたんです。」
「え?じゃあ、亀さんも人を?」
「ええ、殺しました。今までに数え切れないくらい。私は頭の回路のどこかが壊れているんです。人を殺すことに何の感情も抱きませんでした。でもウサギさんに出会ってからは徐々に人間の感情を取り戻しました。ちょうど20年前にウサギさんは私にこう言って現場から退くように説得されたんです。」
「なんて?」
「暴力は絶対にダメだ。暴力は相手の自尊心を削り取る最低の方法だ。だからお前は暴力を使わずに問題を解決する方法を学ぶんだ。」
それは八島が幼少の頃に父親から教わったあの言葉だった。
「それ以来、私は殺しを辞め現場から退いたのです。でも秀行さん、あなたが望むなら私はウサギさんの仇を討ちたい。」
亀は拳を握り締めていた。八島も父を殺した相手が憎い。そして自分の生みの親を殺したその組織も憎い。だが、父のあの言葉が・・・
「暴力以外で解決する方法はあるんですか?」
「私もソレを考えていたんです。でも実行犯に対してはそれは無理です。殺し屋に素手で立ち向かって説得するなんて、それこそ自殺行為です。」
「分かりました。亀さん、そのサカナという奴は始末してもらえますか?その上で、父が壊滅させようとした組織に一糸報いる方法を考えましょう、暴力以外の方法で」
亀はもう一度事件の詳細を八島に説明した。首謀者は清宮と堺とサカナだ。サカナだけは暴力以外で対抗できる相手じゃないので、今すぐ始末に行く、と言って亀はベンチから立ち上がった。
「母が、」
八島が座ったまま口を開けた。
「母が最後に聞いた言葉は蜘蛛の巣は張っているか?だったそうです。」
亀はピクリと動いた。
「どうしました?」
「家になにかあるかもしれません。秀行さんは屋根裏を見ておいていただけますか?」
そういうと亀はあっという間にいなくなった。
9
八島は亀に言われた通り実家の天井裏に上がってみた。天井裏はクモの巣だらけだが、幸いクモ自体は1匹もいなかった。顔と手だけを天井裏に出し、手に持ったほうきでクモの巣を掃った。ある程度掃い終えると、今度はほうきを懐中電灯に持ち替え天井裏をぐるりと照らしてみた。何もそれらしいものは見当たらない。だが暗闇に目が慣れてきたのか、右の奥の方に箱のようなものが見える。位置からすると和室の押し入れの上くらいだな。八島は一度、下に降りてから和室に移動した。
和室の押し入れには荷物がさほど入ってなかった。そのため八島は容易に天井裏を覗くことができた。枕棚の上の板を横にずらすと暗闇の向こうに屋根の梁が見えた。梁と柱が交わるところにその箱はあった。幅2センチ高さ2センチくらいの直方体で銀色に光っていた。そっと手につかむとその箱はひんやりと冷たかった。ほこりの具合から見てもこれが置かれたのはせいぜい2~3か月くらいだろう。中を見たいという逸る気持ちを抑えつつ、八島は押し入れを出た。
テーブルの上にそれを乗せ、しばらくは眺めてみた。てっきり蓋か何かがあって中に機密データの入ったマイクロチップがあるんじゃないかと予想していた八島は少し肩透かしを食らった気分だった。くるくると回してみるが箱が開く雰囲気はどこにもない。これ以上考えても分からないと判断した八島は亀に連絡を取ることにした。
突然、八島の携帯電話が鳴りだした。ビクっとした八島は液晶の表示を見て安心した。
「ああ、今ちょうど亀さんに電話しようと思ってたんです。」
「それは良かった。私も早急にお伝えしなければならないことがあったので、今、清瀬に向かってます。駅の近くでこれから会えますか?」
「分かりました。じゃあ私からの相談もその時にお見せします。」
「天井裏に何かあったんですね?」
「そうなんですけど、これが何かは分からないんですよ。」
「どんなものでしょうか?」
「銀色の小さな箱です。」
「中身は何か入ってましたか?」
「いえ、それが。 箱には蓋らしきものがないんです。だから、中も見れなくて。」
「じゃあ、お会いした時に拝見しますよ。あと15分くらいで到着します。私は白い国産のセダンで向かいますので見つけたら助手席に乗り込んできてください。」
「分かりました、では後程。」
電話を切った八島は急いで支度をし、駅へ向かった。ジャンバーのポケットにはあの箱を入れて洋服の上から握りしめた。おそらくこれに父親の無念を晴らす何かがあるはずだ。そう思うと八島の正義感が一層、燃え上がるのだった。
亀が乗ってきたセダンは目立たないどこにでもあるセダンだった。八島は運転席の亀を確認し中に乗り込んだ。
「これです、電話で話したのは。」
亀は箱を受け取りながら、くるりと箱全体をくまなく眺めた。
「なんでしょうね?これは、確かに蓋もないし。」
亀は箱を振ってみた。が、音もならない。
「それより、そちらのお話ってなんですか?」
八島は尋ねた。
「実は、サカナと会って話を聞くために私はサカナの会社を訪ねました。サカナは普段は会社員として釣具メーカーの社員として会社勤めをしているんです。会社の受付の方は月曜日までは有給で休みの届けが出ていたが火曜日以降は無断欠勤となっているとおっしゃってました。こんなことは珍しいとも言ってました。私は残された手がかりとして池袋の公衆電話ボックスに行ってみました。するとそこには怪しい男がいました。男は明らかに物騒な雰囲気を身に纏っていました。私は男に見つからぬように後を付けました。男が入って行ったのは公衆電話がある方と反対の池袋西口の方でした。丸井の裏にある雑居ビルに入って行った男をその場で2時間くらい待ち伏せしました。ようやくビルから出てきた男はそのままタクシーに乗って立ち去りました。」
亀はここまでを一気に説明した。そしてドリンクホルダーに置いている缶コーヒーを一口飲むとつづけた。
「私は雑居ビルを調べました。1階以外は空室になっているそのビルは4階までしかありませんでしたので、私は下から順番に中へ侵入して様子を調べたんです。すると3階の部屋の奥でサカナが死んでいました。」
「え?」
「誰かがサカナを始末したんです。正直言って私はほっとしました。ブランクもありますし、何よりウサギさんには暴力以外の解決方法をとれと教えられてましたから。でも誰かが代わりにサカナを始末してくれた。ほっとせずにいられません。ただ心配なのは別の勢力が動いている可能性があるということです。」
「亀さんがほっとするのは仕方ないことです。私が汚れ仕事を亀さんに押し付けたんですから。私がはっきりと亀さんに始末してくれと依頼しましたから・・・。でもこれはチャンスと捉えましょう。我々は親父の教え通り、暴力に頼らない解決方法を模索しましょう。」
「秀行さん・・・私も同じ気持ちです。ただ今のところ我々がサカナを雇った奴ら、つまりウサギさんを殺すように指示した黒幕を狙っていることを誰も知りません。それだけが私たちのアドバンテージなんです。」
「ようし、有利なうちに進めましょう!」
「いえ、秀行さん。有利かどうかは不明です。サカナを殺ったのは私たちの味方なのか敵なのかもはっきりしません。もしかしたら私たちもターゲットなのかもしれませんし。」
「そうか。そういえばそうですね。ってゆうかとたんに不安になってきた。」
「秀行さん、しばらく会社を休めますか?行動を共にした方がよさそうです。そして妹さんのご家族とお母さんにはしばらく旅行にでも行ってもらえませんか?」
「そうですね。そうしましょう。うちの女房に話して明日からでも海外に行ってもらいましょう。」
突然、車の後方に衝撃があった。運転していた亀は慌ててハンドルを切るが、横向きになった車の助手席側から今度はぶつけられた。八島は衝撃でうずくまってしまった。亀は窓の向こうの車を見つめる。どこかで見たことのある顔だが思い出せない。向こうの車のフロントガラス越しにこちらを見て笑っている。
亀はギアをバックに入れ男から逃げた。男は追って来る。久米川町の信号を所沢方面に向けて右折した。ちょうど信号が赤に変わったが男は信号を無視して追いかけてきた。片側1車線の道路を猛スピードで追いついてきた男の車は今度は反対車線から追い越しにかかってきた。亀のセダンに横並びになり、車の右側に車ごとぶつけてきた。目の前の東住吉の信号は分かれ道になっている。ギリギリのところで亀はハンドルを左に切った。しばらく進み西所沢のところをもう一度左折した。目の前の踏切が警笛を鳴らして閉まろうとしている。バックミラーで確認したら先ほどの分かれ道で撒いたと思っていた男の車が迫ってきていた。亀は踏切をくぐった。直後、踏切が閉まり轟音とともに西武電車が通り過ぎた。亀は八島を車から降ろし、自分も飛び降りた。そのまま西所沢から上り電車に乗ってようやく一息ついた。
「あれが、あいつがサカナをやった奴なんですか?」
「いえ、まだ分かりません。ただどう見ても味方ではないでしょうね。」
「これからどうします?」
「まずは新宿まで行きましょう。」
10
新宿に着いた亀は車を靖国通りからマルイの裏に進入し停めた。八島を車に残し、西へ向かった。花園神社を通り抜け新宿ゴールデン街の一角にあるおでん屋に入る。店内に客はいない。壁の上に置かれている小さなテレビを見ていた店主は亀の顔を認めると無言でテレビを消した。入口の鍵を閉め無言で2階へ上がって行った。亀も無言で付いて行く。店の2階は店主の自宅となっている。黙って上がると店主は奥の和室で胡坐をかいて煙草に火をつけた。
「お久しぶりです。」
「ウサギがやられたらしいな?」
「ええ、そして殺ったサカナも殺られました。」
「縛ってズドンだろ?」
「はい。誰か分かりますか?」
「手口は多分、あれだな、桐谷って呼ばれてる奴だ。本名かどうかも分からねえし、今もその名前を使ってるかどうかも分からねえ。ここに来たのも10年ぶりだぜ。」
「10年。私が現場を退いたのとほぼ同時期ですね。誰が雇ったのか分かりますか?」
「誰かは分かんねえが、桐谷は堺って奴の居場所を知りたがってたな。」
「堺・・・・。」
「知らねえか?洗濯屋だよ、洗濯屋。ほら普段はどっかで喫茶店やってるっていう、あいつだよ。ただ、今あいつは香港に行ってるけどな。」
洗濯屋とはいわゆるマネーロンダリングを請け負う仕事だ。収入として計上できないお金をなんとか表に出したい、つまり使いたい時に洗濯が必要となる。
最も、簡単な洗い方はまず、ダミーの会社から1個日本円にして5円くらいの物を1000円で買う。洗いたいお金が1億円だとすると10万個ほど買えばいいだろう。このダミーの会社に裏金で払う。けど売れないから別の会社に売る。まあ、その別の会社も仲間内であることが多いが、そこに1個100円で売れば9000万円の損になる。損金で計上できるし、正式な取引として香港の会社にもお金が振り込まれる。アメックスカードか何かを作って引き落としの口座を香港のダミー会社の口座にしておけば振り込んだ1億円を自由に使える。
そうゆうことを指南するのが堺の主な仕事だった。清宮はいわば実行犯だ。そして洗ってほしいお金を持ってくるのが清宮の主な仕事だった。清宮は政治家が闇献金を受けた時に堺に洗わせて表の金にして政治家に戻す、そこで手数料を取っていた。
おでんやの店主によると堺は香港に行っている。では何故、亀と八島が狙われたのか?狙ったのは桐谷という男なのか?
「桐谷に会うにはどうしたらいいですか?」
「さあな。今頃は香港に行ってんじゃねえのか?」
「桐谷の立ち回り先とかはご存じないですか?」
店主は2本目の煙草に火をつけて黙った。天井に向かって煙を吹くとチラリと亀の方を見た。もう話すことはないという意味だった。亀は黙って立ち上がるとお辞儀をし階段を下りた。来た道を戻りマルイの脇まで来て車がないことに気が付いた。
「あれ?」
車を停めたあたりの電柱にピンクの付箋が貼ってあった。亀は急いで東京メトロ副都心の駅に向かった。地下鉄で池袋まで行くと改札を駆け抜け、地上に上がった。歩行者用信号は赤になっていたが、無視してビックカメラの方へ渡る。地下通路からの出入り口付近にある公衆電話ボックスに入るとやはりピンクの付箋が貼ってあった。さっきと違って付箋にはこう書いてあった。
『洗濯屋』
亀はもう一度新宿のおでん屋へ向かった。今度はタクシーを使った。花園神社の所でタクシーを待たせると店まで走った。おでん屋の引き戸を乱暴に開ける。客はいない。ただ店主がテレビから目を離さず紙切れを寄越した。紙切れには喫茶店の名前が書いている。住所は清瀬だ。店主は右手の人差し指をクイクイっと動かした。亀は財布から1万円札を3枚取り出して店主に渡した。店主は満足そうに煙草の煙を吸い込み、そして吐き出した。
亀は待たせていたタクシーまで戻ると運転手に行き先を告げた。電車の方が速いかもしれないが、途中で電話もしたかったからだ。 携帯電話を取り出すと亀はあらかじめ登録していた番号を呼び出し、そこにかけた。しばらくして相手が出る。
「もしもし、箱を一つ届けてもらいたいんですが。」
「どちらさま?」
「亀と言います。」
「箱はもうなくなりましたよ。」
「代わりの品物はないですか?」
「桐の箱ならありますが、今、出払ってます。」
亀はピクリと反応した。亀が電話をかけた先は以前、サカナがつぶしたと噂される組織の連絡係だった。噂どおり箱はなくなったようだ。つまり、消されたと言うことだ。代わりの品物が桐の箱というのが引っかかった。 おでん屋の店主が言っていた名前が桐谷だ。同一人物か?
「箱の持ち主と桐の箱の持ち主は同じ人?」
「ええ。」
サカナがつぶしたと噂の組織はなくなってなかったのだ。亀は電話を切って考えた。サカナは堺の依頼でウサギさんを狙っていた。そのサカナを箱を始末された持ち主が狙っていた。それが桐谷か?桐谷は雑居ビルでサカナを始末した。そしてどういう訳か亀との連絡方法を知った。あの方法はサカナと亀しか知らないはずだ。でも実際、桐谷は亀にピンクの付箋で連絡して来た。そして今日、清瀬の駅から車で亀たちの後をつけ、新宿のマルイから車ごと八島を連れ去った。まだ桐谷が敵か味方か分からない。そうこうしているうちにタクシーは清瀬駅に着いた。 料金を払い亀は車を降りる。ロータリーには亀が借りていたレンタカーが停めてあった。車が停めてある場所に喫茶店もある。亀は喫茶店へ向かった。
11
おでん屋の店主から教えてもらった住所は清瀬駅のロータリーに沿った道路に隣接してあった。亀はそっと近づいてガラスの扉から中をうかがった。亀はハッと息を飲む。人が倒れていた。一瞬、八島じゃないかと心配になるが、彼の服装とは違う。亀は腹のあたりに力を入れてドアを開けた。
店内に入るとまず、銃を突き付けられた。サングラスをかけて濃紺の目立たないスーツを着た男だった。正面のカウンターには白いシャッポに白いスーツの男がいた。カウンターの上に座りこちらを見下ろしている。見るからに冷酷そうな目で亀を睨んできた。亀はピンと来た。ああ、この人は人を殺すことにためらいを感じない人だ、昔の自分と同じだ、と。
「いやあ、よく来たね。亀さんだっけ?長生きしそうな名前だな。本当に名前の通り長生きするのかな?あ、悪いけどさ、後ろのドアの鍵も閉めてくれるかな?」
白いスーツの男は薄い笑みを浮かべながら亀に話しかけた。両手には煙草とライターを持っている。
「清宮のさぁ、居場所を探してるんだよ。君は知ってるだろ?ってゆうか知らないなんて言ったらさ、亀なのに早死にしたりするかもね?」
「あなたは誰ですか?」
「俺?俺の名前は何だっていいよ。キースムーンでもいいし、トミーラモーンでもいいし、ジェリーノーランでもいいよ。」
「全員、パンクバンドのドラムスじゃないですか!」
「お!詳しいねえ。そうだなドラムスって呼んでもらおうかな?俺のこと。で?清宮は?」
「そこに倒れているのは誰ですか?」
「質問してるのはこっちなんだけどなぁ。ま、いいや教えてあげる。こいつは堺っていってここの店の店主さ。君も知ってるんだろ?だからここまで辿り着いた。違うかい?」
「洗濯屋、というキーワードで思いついたのがここでした。私は堺という男も知りませんし清宮なんてのは居場所どころか名前も知りませんよ。」
「俺の親父がさ、誰かに殺されちゃったんだ。誰に殺されたかは、はっきりしないんだ。誰だか分からない奴に殺されるってのが一番不幸だよな?ま、大体の目星はついてたからさ、色々調べたのさ。そしたらどうやら俺の親父を殺ったのはサカナって奴らしいんだよね。だからさ、俺は仕返しをしようと思ってさ、サカナを探してたわけ。そしたらやっと見つけたんだけどね、池袋で。」
「・・・だったら解決じゃないですか?」
ドラムスはチラリと亀を見て、そしてすぐ目をそらした。
「でもさ、見つけたのはいいんだけど、死んでたんだよ。」
ドカンと大きな音がしてドラムスが足を置いていた椅子を蹴飛ばした。
「俺がさ、この手で殺してやろうと思ってた憎い相手をさ、誰かが先に殺っちゃってくれちゃってんだよ。さすがの俺も頭に来たね。だからさ、こうしてサカナを殺った奴と、うちの親父を殺す指示をした奴を探してさ、いろいろ溜まった鬱憤を晴らそうと思ってるんだ。ねえ、サカナを殺ったのって、お前だろ?」
亀は驚いた。てっきりサカナを殺ったのはこの男だと思ったからだ。どういうことだ?ドラムスの親父って誰のことだ?
「誰に頼まれて殺ったんだよ?」
スコン。いつのまにかドラムスは手に何本もナイフを持っている。そのうちの1本を亀の足元に投げた。亀は足元の床に刺さったナイフをみつめ、そしてドラムスの顔を見た。ドラムスは先ほどまでと打って変わって怒りに満ち溢れた表情になっていた。こめかみには血管も浮き出ている。肩が小刻みに震えてるのは爆発しそうな感情を抑えているからか? 亀は恐怖を感じた。
そのとき、カウンターの奥の扉が開いた。ドラムスが後ろを振り返る。一瞬の隙ができたことを亀は見逃さなかった。左側に立つ濃紺のスーツの男の腕をからめとると、一瞬でその男の腕の骨をへし折った。そしてそのまま拳銃をドラムスに向けて全弾、打ち込んだ。最後の1発を打ち終えると同時に店のドアに体当たりし外へ出た。ドラムスは倒せたか?感触はなかった。転がりながら店の前の歩道に出た亀は次の動作で歩道と車道の境目にある街路樹の脇まで到達した。
スコン、スコン。
立ち上がった亀の左頬をかすめるようにナイフが2本飛んできた。
やってなかったか!亀は車道に飛び出し全速力で反対側へ移動した。
油断していた。背後でドアの開く音がしたので振り返ってしまった。開いたドアに向かってナイフを3本投げた。同時にカウンターの後ろに隠れた。亀はドラムスの手下の拳銃を使って全弾を打ち込んできた。1発が左肩のところに当たったが、かろうじて命は助かった。カチンカチンという音が聞こえた。全弾打ち尽くした証拠だ。ドラムスはカウンターの内側で立ち上がるとナイフを2本投げた。が亀は既に外へ脱出していた。ドラムスはカウンターを飛び越え、亀を追おうとした。が、その希望もむなしく、カウンターの向こう側に降りた瞬間に彼は生涯を閉じた。 開いたドアの隙間からシュボンシュボンという音と煙が見えた。消音装置の付いた拳銃の先が見える。
ドラムスは倒れながら後ろを振り返った。
「誰だか分からねえ奴に殺されるなんてまっぴらだよ。」
そう言いながら残ったナイフを4本ともドアの隙間に投げようとした。が、力尽きて投げることはできなかった。
「桐谷じゃねぇか・・・」
ドラムスはそのまま息絶えた。濃紺のスーツの男が駆け寄ったが直後、この男もドアの隙間から撃ち殺される。
道路の反対側から店の出入り口を見ていた亀は、ドラムスも濃紺のスーツの男も追ってこないので、おかしいと思った。1分待っても誰も出てこない。亀は店の出入り口が見えるギリギリの位置からもう一度、店側に道路を渡った。そのとき、店から男が後ろ向きに出てきた。八島だった。
「八島さん、こっちです。」
八島は這うように亀に近づいてきた。
「逃げましょう、亀さん。」
「店の中で何が起こったんです?」
「もう一人、やっかいなのがいたんです。そいつがあの白いスーツの男と濃紺のスーツの男を殺しました。」
「八島さんはどこにいたんですか?」
「カウンターの内側に座らされてました。頭上を拳銃の弾やナイフが飛び交って、私はもう生きた心地がしませんでした。」
亀は考えた。もう一人の男は誰なのか?ドラムスは自分の父親の敵を討とうとしてサカナを狙っていた。ところがサカナは既に殺されてた。自分の敵を横取りされた怒りは亀に向いた。でも亀は殺ってない。誰かが亀が殺ったことにしてドラムスと亀を共倒れにしようと考えた奴がいる。誰だ?どう考えても清宮じゃないか?そうだ!確か箱の組織がつぶれて一番喜ぶのは清宮だったはずだ。
「八島さんは危険ですから新宿のおでん屋へ行ってください。今から送ります。」
堺の喫茶店の前にはドラムス達が亀から奪った車が置いたままだ。2人で車に乗り込んだ。
「亀さんは今からどこに?」
「私は清宮を探します。」
「じゃあ、私も一緒に・・」
「居場所を突き止めたら必ず連絡しますので、お願いです、八島さんは一時、避難していてください。さっきのあの二人は箱って奴の組織の奴らなんです。箱の組織は想像以上にでかい。おそらくここにもすぐに追手が来るでしょう。」
信号が赤になったので車を停めた。ふと気づいて亀は八島に聞いてみた。
「八島さんを車ごと奪った奴らはあの二人だったんですか?どうして私たちがあそこにいることがわかったんでしょう?」
助手席にいる八島の方を向くと八島が銃口を向けていた。
「いえ。私は自分の意思で車を発進させ、そしてさっきの喫茶店まで来たんですよ。」
驚愕の表情のまま亀はなおも問いかける。質問を続けないと疑問ばかりが頭を襲っている。
「堺って男のことは知ってたんですか?」
「亀さん、暴力の連鎖は誰かが止めないと終わらないんです。私はもう私のところで終わりにしようと思ってるんです。どうぞ、車を進めてください。成増まで行ったら外殻環状線沿いに埼玉方面へ向かってください。清宮は川口にいます。」
「どういうことなんです?」
「清宮のところで説明します。」
それっきり八島は黙ってしまった。仕方なく亀は言われた通り車を川口市へ向けて走り出した。
12
清宮はまるで亀と八島が来ることが分かっていたかのように、玄関で待ち構えていた。2人を見た清宮は首を曲げ先に宅内へ入って行った。ついて来いという意味だろう。顔を見合わせた二人は清宮に続いた。玄関を上がってすぐの部屋へ入った清宮は二つ並んだソファーの一つにどっかと腰を下ろした。清宮の向かい側にはおでん屋が座っていた。事情が呑み込めないのは亀だけのようだった。
「二人とも座りなさい。」
清宮が下を向いたままつぶやいた。二人はそれぞれ清宮とおでん屋から少し距離を置いて座った。
「桐谷、てめえホントは何者なんだよ?」
おでん屋が口を開いた。 桐谷? 亀は自分の耳を疑った。
「ウサギのせがれだよ。」
清宮が憐れむようにつぶやいた。おでん屋も亀も驚きを隠せなかった。誰かに説明して欲しそうにきょろきょろとしている。一方、八島は清宮をじっとみつめていた。清宮は ”分かった” と言うように頷いてから語り始めた。
「以前、私の対抗組織と言われているところがサカナを襲った。サカナは普段は釣具の会社で働いているが、裏の顔は政府に飼われている犬じゃよ。一筋縄ではいかないサカナを仕留めそこなったのはそこの組織のミスだったんじゃ。サカナは一人でその抵抗勢力をつぶした。」
「その話なら聞いたことがあります。」
亀が口を開いた。他の二人は黙っている。
「ところが、つぶれたかに見えたその組織は実はつぶれた振りをして地下に潜った。数人の腕利きだけを残してな。その頃、そんなことも知らなかった私は現与党の大物の依頼で様々な利権を欲しがる民間企業から政治献金を集めていた。ところが政権を奪われ野党になり下がった自民党は次の選挙でどうしても政権を奪い返す必要があった。そして私がつぶれたと思っていたはずの組織に我々の裏工作を阻止し、さらにそれらの密約を白日の下にさらすように依頼した。」
「ウサギさんはその地下組織に雇われたのですね。」
「厳密にいうと、その地下組織が使っている箱という男に雇われたのだ。」
「でも箱はすでにいなくなり桐の箱という男が後を引き継いだはずでは?」
「桐の箱というのは、桐谷のことじゃよ。」
清宮はテーブルに置いたカップを持ち上げ一口飲んだ。
「抵抗勢力組織は様々な工作を仕組んだ。ウサギにすべてを調べさせわざと私たちが気づくようにした。当然、私はウサギを消すように指示を出す。ウサギは必死で抵抗し、証拠を残す。そしてその暗殺が警察の目に触れるようにする。証拠には私がすべて指示した事実が分かるようになっている。私はもう終わりだ。明日にでも逮捕されるだろう。それが狙いだったんだろ?」
清宮は八島を見つめた。
「君はいつからこの計画を練っていたんだね?」
おでん屋も亀も驚いた。
八島は両手に拳銃を構え3人を射程距離に入れた。
「まさか箱が親父を雇ってくるとは思いませんでしたがね。それ以外は、ほぼ当初の計画通りです。亀さんを巻き込むのは最初から予定してました。おそらく父の名前を使えばこちらに向くことも予想してました。清宮さん、あなたはもう年老いている。そろそろ現役から退くべきなんです。あなただけじゃない。日本中の年寄りはいまだに自分が一番だったころの思い出を引きずって若い世代の邪魔をしている。今のこの日本を作ったあなたたちはもうただの邪魔ものでしかないのに権力にしがみついてなかなか現場からいなくならない。ほら、昔から言うでしょ?老兵は去れって。」
「八島さん、一体どうゆうことなんですか?」
「清宮さんの抵抗勢力と呼ばれサカナにつぶされたという噂を流したのは私ですよ、亀さん。私は幼少のころから父に様々なことを教わった。あなたを弟子にする直前までは私がウサギの一番弟子だった。私は父に内緒で裏の顔を持つようになった。それが桐谷と呼ばれている男です。つまり私が桐谷です。だが私が組織の長をやってしまうと父にばれてしまう恐れがある。だから身代わりを立てました。その身代わりが『持ち主』です。彼が身代わりだということを知っているのは私と彼だけでした。私は彼を通じて組織を動かしていました。箱は自分の息子を実行犯として使っていました。白いスーツの男です。彼はウサギを殺ったサカナを私の指示で殺しました。ただし、その時は亀さんの振りをしました。そうすることで清宮の目を欺けると判断したのです。ところがサカナを殺された清宮はあきらめるどころか、さらに抵抗しようとして桐の箱を運ぶように依頼してきたのです。桐の箱は、つまり桐谷のこと、そう私の事です。」
「わしもまさかあの組織が残っているとは思わないからな。あんたから聞かされたときは驚いたよ。」
「私は父を、つまりウサギを殺されました。しかし私がやろうとしていたことは暴力を使わずにすべてを解決することだったのです。ところが清宮さん、あなたはことごとく暴力を使って抵抗してきた。私は仕方なく箱にサカナを始末するように指示しました。あなたはそれであきらめるべきっだった。なのに堺を使って今度は私と亀さんを始末しようとした。」
「なぜ私を巻き込んだのですか?」
亀が尋ねた。
「あなたは暴力を使わずに解決する方法を父から教わってるんじゃないかと思ったからです。」
「でも結果的にかなり暴力的なことに私は巻き込まれてます。」
「そのことに関しては謝るしかありませんね。」
「あなたはなぜ私たちに銃口を向けてるんですか?暴力は使わないんじゃないんですか?」
「私の話を黙って聞いてほしかったんです。そうするには銃口を向けるのが一番良い方法だ。亀さん、あなたには申し訳ないと思っている。だがあなたの人探しの能力を使わないと期限内に解決しなかった。」
「期限内って?」
「明日、内閣が解散されます。それまでに今回のことを解決する必要があった。」
「つまりワシは明日以降に逮捕されるということだな。」
「そうです。清宮さん。あなたは自分の利益のために多くの命を奪いすぎた。これは許されることではありません。だが私はあなたを殺さない。生きたまま反省し多くの罪を償ってください。」
「箱の持ち主ってのは誰なんです?桐谷、つまり八島さんの身代わりの人ですよね?」
「さっきからあなたの横にいますよ。」
亀はおでん屋を見つめた。もう驚きすぎて何も言えなくなってしまった。
八島はポケットから銀色に光る立方体を取り出した。右に回すとカポっという音がして中からマイクロチップが出てきた。
「同じものを警察と新聞社、民放各局に送っています。明日は大騒ぎになるでしょう。あなたたちが民間企業の裏のお金を民主党の幹部連中に渡し、それを堺を使って洗っていた証拠もすべてこの中に入っています。おそらく数十人の逮捕者が出るでしょう。」
「わしが助かる方法はないのかね?」
「出所して来たら教えて差し上げますよ。では、これで。」
清宮を残し3人は家の外に出た。背後でズドンという銃声が聞こえたが聞こえないふりをした。
「暴力を使わずに問題を解決するのは不可能なんでしょうか?」
八島はつぶやいた。
「いつかきっとそんな日が来る、それを信じるしかありませんね。私は今回、人探しをしただけですがもうこの世界とは縁を切ります。八島さん、あなたと会うのはこれで最後にしてください。」
「分かりました。巻き込んですみませんでした。」
「最後にひとつだけ聞かせてください。桐谷って本当は誰なんですか?」
「私のことですよ。死んだ本当の母の旧姓です。私は父を恨んでました。大好きな母を殺した張本人ですからね。でも同時に尊敬もしていた。情緒がおかしいんですよ、私は。」
はははと力なく八島は笑った。
「おでん屋は続けますか?」
亀はおでん屋に向き直って尋ねた。
「そうだな。おめえみたいな世間からはみ出た奴がまた現れるかも知れねえからな。俺の表の顔でもあるしよ。」
亀は残念そうにおでん屋をみつめた。
「八島さんは?」
「私も普通のサラリーマンに戻ります。」
亀は背中に隠し持っていた銃を右手に握り、ほんの一瞬で二人を撃った。
「一度裏の顔を持った人は二度と表の世界へは帰れないんですよ。暴力の連鎖はこれで終わりにしましょう。」
もう息をしてない二人に亀は話しかけた。そして銃を八島に持たせるとその場を立ち去った。
オワリ
合掌