山梨との県境にほど近い神奈川県の西の端っこに道志川という綺麗な川がある。
富士山のふもとの山中湖から続く、道志みちと呼ばれる国道沿いと道志川がぶつかるところは、川を境に向こう側が山梨県でこっち側が神奈川県だ。
両国橋という橋のたもとにキャンプ場があり、そこで川遊びが出来るようになっている。
その日は朝から良く晴れた暑い日だった。
まるで春が夏を連れて来て、「じゃ、あたしはこれで失礼します。後のことは後任の夏に聞いてください。」と去って行ったかのような気候だった。
とはいえ、やはりそこは山の中。両国橋に近づくにつれ、気温は幾分和らいで、少し涼しいかな?と思える程度にはなっていた。
駐車場に車を停め、水着に着替えて川原に下りた。 レジャーシートとキャンプ用の折りたたみチェアを広げ、ミニテーブルの上にはコーヒーセットを用意した。
子供達は既に川に入っている。
「お父さ~ん!冷たいよ~!」
放任主義を貫く私でも、さすがに流れのある川に子供だけで入らせるわけにはいかないと考えた。 だから、意を決してその川の中に入っていこうとした。
大丈夫。だっていつもサウナのあとは水風呂に入るやん?
と、それくらいの軽い気持ちだった。
しかし、川の水は私の想像をはるかに上回る冷たさで、いや、この場合は下回ると表現するのが正解か?とにかく、冷たかったのだ。
足首だけしかつけてないのに眉間がキ~ンとなるほどの冷たさだった。 まるで、そう、アイスクリームを急いで食べたときに来るあのキ~ンだ。
「お父さ~ん。早く早く!」
仕方なく私は肩までその冷たい川の水に浸ける。耳の奥がぎゅっと締め付けられるような思いだ。 忘れていた。 私は極度の寒がりだった。
「お父さんはギブアップ。」
そう宣言して、レジャーシートで待つ妻の元へ駆け寄る。
「どしたん?」
「いやあ、冷たすぎてやれんわ。」
「そら、そうやろね。足の先っぽ、ちょっとつけただけでキ~ンってなったもん。」
「肩まで行ったら耳鳴りがしだしたぞ。」
「そげんね。もうやめとき。唇が紫になっとうよ。」
「コーヒー入れて。」
妻の入れてくれたコーヒーでひとまず冷えた身体を温める。
体温の高い子供達は、その後も冷水をものともせずに遊び続け、やがて周囲は日が暮れて薄暗くなり出した。時計を見ると17時になろうかとしていた。
子供達に声をかけ、帰り支度を始める。娘の濡れた身体を大き目のバスタオルで拭いてあげると、全身が冷え切っていた。 タオル地のパーカーで包んであげると、あったかいと言って微笑んだ。
川面に移る夕方の陽の光も、川原に転がるごつごつした石も、まだ遊びたいとぐずる息子も、パーカーに包まれた娘も、全てが幸せだった。
そして、そんな幸せは長くは続かなかった。
曲がりくねった道志みちを来たときと逆に車を走らせる。国道412号線に突き当たり青山の信号を左折したときに悲劇は突如、私の下腹部を襲ってきた。
「やべえ、腹が痛え。」
川の水で冷えたからなのか、強烈な便意と激痛が私を襲ってきた。 ナビゲーションの地図を拡大し、進行方向の一番近いコンビニエンスストアの位置を確認するが、現在位置からだと7kmも先に行かないとない。
もう間に合わない!そう思ったとき、前方右手にマルエツが見えてきた。 ここしかない!そう思い、対向車が切れた瞬間にハンドルを右に切った。サンキューマルエツ。ここにいてくれてありがとう!
広い駐車場の奥にはドラッグストアらしきものも併設してあった。 だが、私が求めているのは激痛を和らげるドラッグではなく、ウォシュレット付の便器だった。
駐車場に描かれた矢印の通り進もうとしたが、前が詰まっていた。しかたなく通路の真ん中に車を止め、妻に「後は任せた!」と言って車を飛び降りた。 走ると門が開いて敵兵達が飛び出そうだったので、そっと薄氷を踏むような慎重さで、なおかつ急ぎ足でマルエツの入り口を目指す。
さすがマルエツ!トイレは店舗の奥ではなく、入り口のすぐ脇だった。 サンキューマルエツのトイレ。近くにいてくれてありがとう。
トイレのドアを開けるとその正面が「大」の個室だった。ドアノブに手をかけると、鍵の部分が赤になっていた。
「ウソだろ・・・」
私はそうしても無駄だとしりつつもドアを激しくノックした。 中から弱々しいノックが返って来た。 脳裏には先ほど見たドラッグストアが浮かんだ。
マルエツを飛び出して、駐車場右奥のドラッグストアを目指してすり足で向かった。ドラッグストアの建物右側に店舗入り口とは別のドアが設けられていた。外壁にはトイレのマークとそのドアを指している矢印が描かれている。一目散にそのトイレを目指す。 左側から高校生くらいの青年が歩いてきた。 その子がトイレを目指しているかどうか分からないが、俺の方が先だ!という気持ちが働いた。
もう敵兵達は門のすぐそこまで来て、門が開くのを今か今かと待ちわびている状態だった。 だが、あの高校生の後塵を拝するわけにはいけない。 門が開いてしまう恐れを抱きながら私は走った。
トイレのドアの前にたどり着いたときの安堵感は何物にも代え難かった。スライドドアを開けようと、横に引っ張った。
『ガコン』
無常にもドアは施錠されており、ドアノブのところの表示が赤になっていた。 首筋と脇からは大量の汗が噴出した。
「ああ、終わった。」
私はあきらめようとした。 天を仰ぎ、神を恨んだ。 「どうして、どうして神よあなたは、私にこんな試練を与へるのでせうか?」
ふと、前方に私の乗ってきた車が見えた。妻が停めたのだろう。車の中から娘と息子が心配そうにこちらを見ていた。
あきらめたらダメだ。子供達が見ている。 自分の父親がマルエツの駐車場でウンコを漏らしたと知ったときの悲しみを想像したらやりきれなくなった。安西先生が言ってたじゃないか、あきらめたらそこで試合終了ですよ、と。
もう一度歯を食いしばり門を閉める。敵兵達よ、もうしばらくそこにいてくれ。出てくるんじゃないぞ。重い足を引きずってマルエツのトイレを目指す。
ゆっくりと、ゆっくりと。 恐らく敵兵達はほんのわずかな門の隙間さえ見逃さずに出てくるだろう。 ちょっとでも出してしまったら、あとは雪崩のように全ての兵隊が外に出てくるのは容易に想像が付いた。
少しずつトイレのドアが近づいてくる。トイレのドアに手をかけ、ガンっとあける。大の個室は正面だ。 ドアノブのところを見る。
青に変わってる!
個室のドアをそっと押すと、いとも簡単に開いた。 私は急いでズボンとパンツを下ろし便座に座る。まだ先客のぬくもりが残る便座は気色悪かったが仕方がない。
座るや否や、アズスーンアズ。開いた門からは敵兵達が一気に出てきた。 私はしばらく放心状態で、敵兵の最後の一人が出て行くまでじっくりとその時を待った。
吹き出ていた汗が少しずつ引いて行くのが分かる。
さあ、子供達が待つ車に戻ろう。
車に戻った私は子供達にこう告げた。
「何があってもあきらめるんじゃないぞ。あきらめずに頑張ったヤツだけが成功を手にするんだ。」
「良かったねお父さん、漏らさんで。」
助手席では冷ややかな目で私を見る妻が口の端を少し上げて皮肉な笑みをこぼしていた。
「もし間に合わんやったとしてもマルエツでパンツ買ってやろうかと思いよったんよ。父の日のお祝いも兼ねてさ。
」
ああ、あきらめなくて良かった。
そうか、今日は
チチノヒダ
合掌