591発目 52の話。


脳

会合の後、居酒屋で飲んでるときに体の部位に関する話になった。 部位には全て名称がある、という話だ。 私が常々疑問に思っていた内容だったから、興味深く話し手に耳を傾けた。 話し手の方はロマンスグレーのスッキリとした紳士で、田村と名乗った。

 

田村さんはみんなを見回しながら、こんな問題を出した。

 

「膝の裏ってなんていうか知ってる?」

 

誰も答えられない。

 

「膝窩」と書くらしい。読み方は「しっか」だそうだ。

 

「窩」は「か、わ、あなぐら」などと読む。 なるほど「膝のあな」という意味か。 そういえば眼の窪みの部分も「眼窩」って言うもんな。

 

私の娘は脇のことを「脇の穴」という。あながち間違いでもなかったのか。

 

ちなみに娘は乳首のことを「おっぱいのつぼみ」という。 こちらは「あながち間違い」だ。

 

「どうしてそんなことを知ってるんですか?」

 

と尋ねてみたら、想像通りの言葉が返ってきた。

 

「ひょんなことから、その話題になったんだ。気になって調べてみた。」

 

私はこう見えて素直で無邪気な一面も持っている。 四六時中、意地が悪いわけではない。 素直に田村さんに尊敬の念を持った。 すごいなぁ、と。 この人なら何でも知ってるかもしれない、と思い次の質問をぶつけてみた。

 

「ひょんなことって、どんなときですか?」

 

「ひょんなことだよ。」

 

「いえ、そうではなくて、ひょん、ってどういう意味ですか?」

 

本当に素直に疑問に思ったし、この人なら知ってると思ったから聞いたのに、場には「ヤマシタが意地悪している」という空気が流れた。

 

ところが、やはり田村さんは賢かった。

 

「ああ、それはね。 凶という字の唐音だよ。唐音ってのはさ、平安時代の僧侶が伝えた事物の名称に使われた漢字の音のことなんだ。だからひょん、ってのは意味は妙な、っていう意味さ。 ちなみにひょんな、っていうのが正式な読み方だよ。 」

 

「へえ~」

 

その場の空気が一気に「すごい」という雰囲気になった。

 

「唐音って他に何かありますか?」

 

「例えばさ、安普請とかって言うだろ?あの普請もそうだし、あ、あとあれだ! 饅頭なんかもそうだよ。」

 

「へえ~へえ~」

 

雑学王を自負する私としては少し面白くない空気になった。 挽回しなきゃ、挽回しなきゃ! そう思ってると、ある一人の年配の方がこう質問した。

 

「脳ってのもいろいろな部位があってそれぞれに名前が付いてるんだろ?」

 

「ああ、そうらしいですね。でもそれに関しては私は詳しく知らないんですよ。」

 

「何個くらいあるんだろうね?」

 

「大脳と側頭葉、前頭葉くらいしか分からないですね。」

 

キタ~~~~~~!

 

知ってるぞ! 脳の部位の数! あたし知ってます、知ってます!

 

ようやく廻ってきた挽回のチャンスに私は一人興奮する。

 

「52です。」
「お時間です。」

 

全員が私ではなく近づいて来た店員の方を向いた。 そして全員が「この話はこれで終わり」とでも言うかのようにかばんを持ち立ち上がった。

 

「え?52よ。ねえ、みんな!52・・・」

 

全員が私を残しレジに向かっている。

 

「あ、あの、52・・・」

 

「いやあ、今日は楽しかった。ためになる話も聞けたしね。」

 

「52・・・・」

 

「じゃあ、皆様、お疲れ様でした!」

 

田村さんがにっこり笑って近づいてきた。 「じゃ、ヤマシタさん、また今度。」

 

握手を求めるように右手を差し出した田村さんに私は最後の力を振り絞って一つの矢を放った。

 

「52ですよ。」

 

「え?ああ、そうなんだ。52年生まれなんだ。じゃ、また。」

 

 

チガウチガウ

 

合掌

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