奈津美は縁側に立つ夫を見ていた。
さっきからずっと片手に湯飲みを
持ったまま、そうやって立っている。
奈津美にとって、夫の言動は
まるっきり興味が無かった。
すでに夫婦としての関係は
終わっている、と奈津美は
思っていた。
子供達も二人とも結婚し、
親としての大役は果たした。
あとは、このまま死ぬのか、
それとも、もう一度この人と
残りの人生を楽しむのか。
後者を選ぶことはないな、と
あらためて思った。
奈津美の夫はいわゆる
亭主関白で、目の前にある
醤油でさえ自分でとろうと
しない人だった。
子育てでさえ、奈津美に
まかせっきりで、ちょっとでも
文句を言おうモンなら
『俺は外で戦ってるんだ!
家のことはお前に任せると
言ってあるだろう!』
とすぐに大声で反論する。
それでも子供達のことを思い
この30年間は耐えた。
4年前、下の娘が嫁いだ頃から
夫は抜け殻のようになり、
今のように、ぼうっと過ごす
ことが増えている。
娘は結婚式で両親に手紙を
書いてくれた。
それを披露宴で読み上げたとき
夫は泣いていた。
思えば出会ってから30年間で
彼が泣くのを初めて見た。
その瞬間はさすがに奈津美も
少しほだされた感じもしたが、
こうしてまた普段の生活に
戻るとやはり夫が何を考えて
いるのか分からない。
夫は3年前に定年退職した後も
知り合いの伝手で仕事を
見つけてきたので、平日は
奈津美は家で1人で過ごす。
土日に夫がいることを除けば
いたって幸せで平凡な生活だった。
だから、まあいいか、という
気持ちのままずるずる来ている。
『どうなるのかしら・・』
奈津美はふと、堺のことを
思い出していた。
堺との出会いは15年前に
さかのぼる。
駅前の喫茶店でマスターを
やっている堺は、謎が多かった。
時々、海外にも行っているようだった。
堺は趣味が旅行だと言っていたが
喫茶店ってそんなに儲かるのかしら?
ウチなんて新婚旅行以来
海外なんて行ってないわ、と
堺の暮らしぶりに疑問を
持たざるを得ない。
『おい、ウチの屋根裏には
くもの巣は張ってるか?』
突然、夫に話しかけられた
奈津美はその質問の意図が
つかめなかった。
あっけに取られる奈津美の
顔をみつめ、夫はもう一度
同じことを言った。
『くもの巣だよ。どうなんだ?』
『ええ、多分、張ってると思いますよ。
屋根裏なんて家を建ててから
一度も掃除したことなんて
無いですから。
なんですか?急に。』
『いや、いい。忘れてくれ。』
それが夫と交わした
最後の言葉だった。
ツヅク
合掌