~大好きなばあちゃんに捧ぐ~
ばあちゃんは仕事に就いたことが
ないらしい。
若い頃にじいちゃんと一緒になり
すぐにオレの父ちゃんを産んだ。
その後、もう一人産んで
満州に渡り、戦争が終わってから
日本に戻ってきた。
日本に戻ってきた頃には
子供が二人増え6人家族に
なっていた。
オレの父ちゃんを筆頭に
男ばかり4人兄弟だ。
そんな男所帯で暮らしていたにも
かかわらず、ばあちゃんは
肝っ玉母ちゃんではなく
品の良いお嬢様スタイルだった。
オレはこのばあちゃんのことを
『到津のばあちゃん』と呼んでいた。
知らない人は読めないと思うので
読み方だけは教えよう。
『いとうずのばあちゃん』だ。
小倉北区のとある地名だ。
帰国してからずっとそこにいる。
当時は戦後のごたごたで
食べるものも着るものもない
時代だったがじいちゃんは
ばあちゃんだけには綺麗な
着物を着せていたらしい。
ご近所さんがため息をつくほど
美人だったというのは
孫のオレから見てもうなずける
ほど綺麗な顔立ちをしている。
そして、立ち居振る舞いに
品がある。
仕事に就いたことがないからか
お嬢様育ちだからかわからないが
世間の事情に疎い。
金銭感覚も少しおかしい。
年末年始はばあちゃんの
家で過ごすのが恒例だった。
小6のそのときもオレは
妹二人とばあちゃん家に
泊っていた。
後から来た、いとこ二人と
冬休みいっぱいをばあちゃん家で
過ごすのは子供たちにとって
楽しみしているイベントのひとつだ。
そしてその期間中、もっとも
楽しみなのは、そう!
お年玉だ。
金銭感覚のおかしなばあちゃんは
小6のオレに対して
『サトルさんはもう大人だから』
と言って1万円をくれる。
小6で1万円と言うと
一生遊んで暮らせると
思えるほどの大金だ。
小学校に上がっていない妹と
いとこのコースケにさえ1000円も
入れている。
孫達はばあちゃんが大好きだった。
その年、オレはいとこのコースケを
つれて映画を観に行くことになった。
まだ小倉には路面電車があり
映画館のある街までは電車で
電停で6コ目だ。
小学生と幼稚園児なので
電車代も当時だと70円だった。
オレとコースケはお年玉を握り締め
映画が終わった後は、井筒屋で
ベジタベルセットを食べるつもりだった。
井筒屋は当時の小倉の中心的存在の
百貨店で渋谷でいうところの109みたいな
もんだろう。
玄関で靴を履いてたらばあちゃんが
近づいてきてちり紙を小さくたたんだ
ものをオレに渡した。
『サトルさん、お母さんに内緒よ。
これ電車賃。』
あああ、ばあちゃん!
オレは涙が出そうなくらい
うれしくなった。
浮いた交通費でベジタブルセットが
食べられる!
オレは小さな声で
『ばあちゃん、アリガト!』
といい、コースケの手を引いて
電停に向かった。
到津遊園地前の電停は
オレとコースケしかいなかったが
コースケは小さな声で
『兄ちゃん、さっきばあちゃんに
何もろたん?』
と聞いてきた。
『電車降りる頃には分かるよ』
と勿体つけた。
電車が魚町の電停に着く直前
オレはばあちゃんからもらった
ちり紙の包みを開けた。
金銭感覚のおかしなばあちゃんは
きっと千円札を入れてるだろうと
予測していた。
ちり紙の中から出てきたのは
キラキラと黄金の光を放つ
5円玉だった。
くっ。
ここまで金銭感覚が狂ってるとは!
映画が終わりばあちゃん家に帰り
オレはばあちゃんを台所の横の
廊下に呼び出した。
『ばあちゃん、5円しか入って無かったよ。』
『何言いよんかね、サトルさん。
5円あったら大分までいけるわいね。』
それはいつの時代の話だ?
その夕食時、オレはじいちゃんに
ある質問をぶつけた。
『じいちゃん、昔って大分まで
電車で行くときはなんぼかかりよった?』
『おお、そうやのう。
昔は安かったで。じいちゃんが
若いときは25円やったわ』
やっぱり5円じゃ足らんやん。
ナガイキシテネ バアチャン
合掌