テーブルの上に1枚の絵が置かれている。ある人は「花瓶に見える」と言い、またある人は「女性が向かい合っている」と言う。有名なロールシャッハテストで出てくる絵だ。名前をルビンの壺という。
人間の脳にはまだ解明されてない部分が多く、1枚の絵でも視点を変えると別のものに見えるし、いったん花瓶に見えてしまうと、もう花瓶以外に見えないというのも脳の不思議だろう。ちなみに私は花瓶に見える。
違う視点の脳を持った人と出会ってしまうと、つまり花瓶じゃない方に見える人とは仲良くなりたくても仲良くなれないという事実に直面したのは、1996年の夏のことだった。
春になり、会社には新人たちが入って来た。さあ、先輩風でも吹かすかね、と いつもより気持ちは止めに出勤した俺を待っていたのは、本社からやって来た経営戦略室室長というやたら固い肩書のオッサンだった。
固いオッサンは俺を会議室に呼び出すと前置きもなしにこう言った。
「明日から米沢に行ってくれ」
もちろん、俺は米沢なんて縁もゆかりもない。そもそもどこにあるか分からない。質問する権利は俺にだってあるだろう。
「何しに?」
固いオッサンは、そこからダラダラと長い説明を始めた。要約するとこうだった。
米沢にある部材工場の不採算部門をリストラして営業所にする。営業マンを募集しているが応募がないので工員たちから営業になりたい人を募ったら、意外と大勢が手を挙げたが、営業経験がある人はゼロだった。お前ちょっと行って、営業を教えてこい。
そうして俺はその日の午後には米沢に向かって東北道をひた走っていた。
米沢の営業所で俺を迎えてくれたのは、俺より5つ年下の好青年だった。中学を卒業してからこの部材工場で働いていたそうだ。社歴で言うと俺より先輩だが、好青年は俺のことを「所長」といって敬意を表した。
「俺、営業で1等になりてッス。」
という好青年は、やる気に満ち溢れていたが、彼の脳は私の脳とは違っていた。
「1時間のうち9割は雑談でいいんだ。のこりの1割で大事なことを言え。」
「今の、言え、って言うのはやはりウチの会社が家を売る仕事だからですか?」
おっと。
俺はこんな真剣な場面で駄洒落は言わないよ。
「でも1時間の1割だとしたら1分で大事なことを言わなきゃいけませんね。」
え?
「いや、それは物の例えだから。大体でいいよ大体で。あとね、1時間の1割は6分だからね、正確に言うと。」
「マジっすか?すいません、俺中卒だから。」
俺は一抹の不安を抱えながら、自宅の建て替えを検討しているあるお宅にこの好青年を連れて行くことになった。玄関の前で再度、忠告をしておく。
「俺がしゃべるからお前はお客の言ったことをメモしておけ、いいな?」
「分かりました。どっちをメモしたらいいスか?」
「どっちって?」
「1割の方っスか?」
「いや、全部だよ!全部メモしろよ!」
「分かりました。」
俺がインタホンを押そうとしたら好青年がそれを制した。そして俺を庭の方へ連れて行き、縁側から家の中に向かって叫びだした。
「おっか~、おっか~、約束通り来たぞ~。いねえのけ?」
「おい、なんだ?お前の知り合いか?」
「いいえ、初めてです。」
俺は驚いた。田舎ってこんな感じなのか?家の中かから出てきた年配の女性は俺たちを見ながらにこりと微笑んで「いらっしゃい、どした?上がってけろ」と初対面の俺たちをすんなり受け入れた。もしかしたら俺はこの女性とも違う脳なのか?
俺は気にせず雑談を進める。女性はうなづきながら黙って俺の話を聞いてくれてる。横を見ると好青年が一生懸命メモを取っている。横からのぞき込むと。「所長は埼玉から来た。埼玉は東京の隣にある。おっかあは生まれた時から米沢にいる。米沢は昔の方が雪が多かった。雪は冷たい。白菜の漬物が好き。」
好きな食べ物をきっちりメモしとる・・・
まあ、いい。今度は女性の話を聞く場面だ。
「私が子供の頃は今よりももっと雪が深くてねぇ。このへんも冬になると、2階から出入りするんだよ。」
そう言われると、このあたりの古い家は2階に玄関がついている家が多い。地域の特色だなぁ。
「小学生の頃なんか、電線をまたいで学校に行ってたわよ。」
好青年は俺の横で驚いた顔をしている。そしておもむろにこう言った。
「え?昔ってそんなに電柱が低かったんですか?」
と聞いた。
女性も俺も同じ表情だったと思う。ああ、こいつはロールシャッハの絵が花瓶じゃない方に見えるタイプだな。
「すごいっすねぇ。ひっかかったら危ないスよね?」
結局、米沢の営業所化計画はうまくいかず、半年もしたころに固いオッサンから電話があり
「もういいから戻って来い」
という雑な人事の内示を受けた。
あれから一度も米沢には行ってないが、みんな元気かなぁ?
ダレトモナカヨクナラナカッタナァ
合掌