午前9時まであと15分という時間帯の横浜駅9番ホームは人でごった返していた。湘南新宿ラインと呼ばれるその路線に入ってきた電車は、籠原という想像もつかない場所が行先になっていた。
電車に乗り込み、ドア上部に貼りだされた路線図を見ると、どうやら東京を抜け埼玉はおろか群馬や栃木までつながっているみたいだ。群馬や栃木に用はない。私が行きたいのは恵比寿だった。
ぎゅうぎゅう詰めの車内では、手を動かすことすらままならず、カバンに入れている文庫本を取り出す余裕はなかった。
参ったな。このまま数十分間の間、何もせずただつり革を握って時間が過ぎるのを待つのか・・・・
何か暇をつぶせる物はないかと周囲を見回すが、目に入るのは広告ばかりだった。このあたりに掲示してある広告は既にすべて読んでしまっていた。
ふと、脇腹に固いものがぐりぐりと押し付けられている感じがした。左側だ。そ~っと左手で持っていたつり革を右手に持ち替え、当たっている固いものをよけようとした。どうやら隣に立つオッサンのカバンが当たってるようだった。満員だから仕方ないな、とあきらめそのまま放置することにした。
そんなこちらの気持ちに気がついたのか、オッサンは「ごめんな」って目で私を見てお辞儀した。たったそれだけのことだが、なんだか私の心は雲一つない空のように、あの青空のように広がっていく気分になった。
ちょっとしたことだな。相手に不快感を与えるよりは、このオッサンのようにちょっとした会釈で相手を気遣う、私もそんな大人になりたい、と思えた。
電車が川崎駅を通過した頃には乗客はさらに増えていた。既に立錐の余地もないくらいの状態だった。
ふと、左隣のオッサンをみると、つり革につかまった手を懸命に伸ばし、首が傾いたままの姿勢で歯を食いしばっていた。つり革を離すと危ないし、でも持ってられないくらい人の波が押し寄せてきてるし。
先ほどのこともあったので、私はオッサンに自分が持っているつり革を譲ろうと考えた。さて、どうやってオッサンにそれを伝えようか?
電車のアナウンスが、「この先、電車が揺れます。ご注意ください。」と言っている。急がなきゃ。こうなったらオッサンに聞こえる声でストレートに言おう。「オッサン、こっちに掴まれよ」って。
意を決してもう一度オッサンの方に振り返ったときに私の視界にそれが飛び込んで来た。
それは、オッサンの耳の穴だった。
首を傾けているオッサンの耳の穴は天井を向いていて、背の高い私の位置からちょうど見下ろせるところだった。
その小さな耳の穴から恐ろしいほどの量の毛が飛び出てきていた。
習字の時に使っていた名前を書くときの筆って何て名前だっけ?そうそう「小筆」だ。
オッサンの右耳の穴からは小筆が出てきているようだった。
反対側の耳の穴も見たい。
とっさに私の心に浮かんだ感想はそれだった。
きっと反対の穴からも、モッサリと毛がはみ出ているに違いない。もしくは筆の持つところが出てるのか?頭の中を小筆が貫通してるのか?
とにかく、反対側を見たい。しかし今、私がすべきなのは、この先で電車が大きく揺れる前にオッサンにつり革を譲ることだ。
だめだ。欲望が、反対側の耳の穴を見たいという欲望が抑えられそうにない。
そんな私に朗報です。
「オッサン、こっちのつり革につかまれよ」と言ってあなたの右側に誘うのです。そう。立ち位置を入れ替われば自然とオッサンの左耳、つまり反対の耳の穴が見えるのですよ。
私は心の声をしっかりと聴いた。そしてそれを実行しようとした。
その時、ガタンという音とともに電車が左右に大きく揺れた。慌ててつり革を持つ手に力を入れる。少し先の方で女性の悲鳴のようなものも聞こえた。そしてもう一度揺れ戻しがあり、右側から大きな力が加わった。
ふう。なんとか倒れずに済んだ。あ!オッサンは?
慌ててオッサンがいた左側を見る。オッサンはつり革から手を放して、くるりと反対向きになっていた。くしくも私から左耳が見える態勢になっていたのだ。
私はそうっと、オッサンの左耳を確認した。
そこには大筆がはみ出ていた。
ナゼソンナニケガハエル?
合掌