文学作品と呼ばれるものは宮沢賢治くらいしか読むことはなかった。だが、やはり有名な作家の有名な作品は心に響くものがあるし、興味深い。さらにもっと言えば、女にもてそうだ。
例えば「最近読んだお勧めの本を教えてって?、そうだなぁ。宮沢賢治の生徒諸君に寄せる、なんかいいと思うよ。ボクはあれでコペルニクスに興味を持ったんだ。」とか言う青年がコンパであなたの隣に座ったら、きっとあなたはうっとりした顔でその彼の横顔を見つめるだろう?
そして恥ずかしそうにうつむいて「コペルニクスって何ですか?」って聞いたりするんだ。宮沢賢治を読むような男は、コペルニクスを知らないあなたを馬鹿にしたりしない。優しくこう教えてくれる。
「地球ってのはさ、他の惑星と同様に自転しながら太陽の周りを公転してるって説を唱えた人の名前だよ。」
そして彼はこうも付け加える。
「もし君が太陽なら、きっと僕は自転しながら君の周囲を公転するだろうね。」
あなたはその時、こう答えるべきだろう。
「よく分かんないけど、年収は900万で次男なんですね。連絡先を交換しましょ。」
ともあれ、世の中の男女が近づくためにも、もっと文学作品を日常的に読む習慣を身に付けるべきだ。
「そげん言うばってん、文学作品って言われても何を読んだらいいと?」
って言う諸君にはこれをお勧めしよう。間違っても太宰治なんか読むべきではない。タイミング的に芥川賞を受賞したお笑い芸人に影響されたと思われるぞ。
私がお勧めするのは、表題にもある通り、坂口安吾だ。
この坂口安吾の作品「白痴」はタイトルからしてとんでもないとお分かりいただけるだろう。辞書によれば「白痴」とは『精神遅滞の重度のもの』とある。
そして確かに登場人物が軒並み「頭のおかしい」人達ばかりなのである。しかも「貞操観念がまるっきりない」人達でもある。
ところがそんなおかしな世界のおかしな住人たちが繰り広げるおかしなラブストーリー(そもそもラブストーリーという表現が正しいかどうかも疑問だが)に次第に引き込まれている自分に気がつくのだ。
戦後の混乱期に書かれた本作品は仮名遣いや言葉のチョイスにノスタルジーを感じるが、それ以前に言葉の持つ強い威力にノックアウト間違いなしだ。
『人間の、また人生の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、いやな物はいやだと言う、要はそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだと言う。』
「母の上京」という話では、戦時中に自分の故郷へ家族を疎開させたが、戦争が終了しても疎開先から家族を呼び戻さず、さらには自宅を転々として居所を知れないようにした男が、隣に住む母子家庭の母子の両方と関係を持つ。そしてやがて居所を探し当てた母親が上京してきて、この男が母に土下座するという単純な話なのに、作中でずっと、抱いた女の悪口を述べ、いかに自分が「うっかり抱いた」のかを強調する。
私は海を抱きしめていたい、で彼はこう言っている。
「わたしは悪人ですと言うのは、わたしは善人です、と言うことよりもずるい」
こうしてバカげたストーリーの中のバカげた登場人物たちが時折「はっ」とするようなセリフを投げつけてくるのだから、こりゃあもう、嵌らずにはいられないだろう。
さあ、秋の夜長の読書の候補に坂口安吾を加えてみてはどうだろうか?
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