エレベーターの中には私と老人の二人きりだった。
私が8階で乗ったときには既にその老人はいたので、おそらくその上の9階か10階から乗ってきたのだろう。
何が気に食わないのか、ムスっとした表情で階数表示を見つめている。
そのビルには地階はない。 だから1階に着いたときに乗っている人は全てエレベーターを降りる人だと考えてよい、はずだった。
エレベーターが1階に到着した。電子レンジが「温まりましたよ」というときに発する音と似たような音が到着を告げる。
老人は私よりドアに近い位置に立っていた。 だからその老人の影になって外の様子は見えなかった。
若者が私たちが降りるより先に乗り込んできた。 老人はその青年の肩をグイっとつかみ自分の方へ振り向かせた。
「おい! エレベータでは降りる人の方が優先だろ!」
エレベーター内は一気に険悪な雰囲気に包まれた。怒気を含んだ老人の荒い息遣いが私のいるところまで聞こえてきた。 青年は何も言わずに老人を睨み返した。
「おい!聞いてんのかよ?」
青年は尚も沈黙を保っている。
「降りる方が先なんだよ!常識だろうが!」
青年はようやく堅く閉ざした口を開いた。
「常識? そうなんですか?」
息を荒げる老人に対し青年はいたって落ち着いていた。
「常識に決まってんだよ!だからお前は非常識だ!」
私は二人のやり取りを見ながら芥川龍之介の言葉を思い出していた。
「危険思想とは常識を行動に移そうとする思想である。」
老人は危険思想の持ち主なのだろう。 このとき私が感じていたのは 「どっちが先でもいいやん」 だった。
例えばあれだ。 エスカレーターで右側に立ってると後ろから 「おい、左に移れよ!邪魔だろ!」 という雰囲気を出してくる。 やれ、関西は右側に立つ、とか。関東だと左側だ、とか。 それが常識だ、とか。
常識なのか?
エスカレーターでの歩行は危険です。おやめください。とシールが貼ってるじゃないか!急ぐなら階段を使えよ!と思う。 常識っていったい誰が作ったのか?
じょうしき【常識】
健全な社会人ならもっているはずの(ことが要求される)
ごく普通の知識、判断力。
だったら、この学生然とした青年には常識は適用されないのではないか?健全な社会人の知識だもんな。
怒りに震える老人に閉まりかけたドアがぶつかった。
ガコン。
「いてて。」
老人は常識を行動に移そうとして危険な目にあった。
芥川龍之介が言いたかったのはこういうことだろうか?
いや、違うだろうな。
青年は私にペコリと頭を下げ外へ出るように促した。 私は二人の前を通り過ぎようとした。そのあいだ青年は「開く」ボタンを押してくれていた。
私がエレベーターから出ると、老人は私に向かってこう言った。
「なあ、お前もそう思うだろ?」
私は返答に困ったが、こう言い返した。
「誰かの常識は時として誰かの非常識ってこともあるんじゃないですかね?」
ガコン。
恐らく青年が「閉じる」ボタンを押したのだろう。老人は再びドアに挟まれた。
「いてて、おい!」
青年はエレベーターの中から老人を押しのけ強引にドアを閉めた。 老人はやり場の無い怒りを私に向けてくるかと思ったら、すごく静かにこう言った。
「常識じゃなかったのか?」
「どちらでもいいじゃないですか。互いが譲り合うほうが争いや諍いがなくなって良いと思います。」
「なるほど、そうか。いや、失礼した。君にも迷惑をかけたな。」
「いえいえ、お気になさらないでください。」
老人はビルの出入り口に向かって歩き出した。
ガコン。
「いてて。」
最後の最後で自動ドアに挟まれていた。
結論。
ドアに挟まれることは常識を行動に移そうとしたときに起こる。
芥川先生、いかがでしょうか?
合掌
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