糖分の取りすぎに注意しよう。
昼食後、割と大きな商談の契約のため、時間に遅れないよう早めに指定の場所に到着した。 約束の時間までは1時間ある。 心を落ち着かせるために近くの喫茶店でコーヒーを飲むことにした。 最近流行のカウンターでコーヒーを購入し、自分の席に自分で持って行くスタイルのあの店だ。 大してうまくも無いコーヒーに530円も払うことに多少のイラつきが隠せない。
狭い店内の狭い椅子に座り小さなテーブルの上にトレイを置く。 1人で来ている客が多いためその小さなテーブルはほんの少しの隙間を空け等間隔に並んでいる。 私の左隣には分厚いレンズのメガネをかけた男性がノートパソコンに向かって一心不乱にキーを叩いている。右隣は空席だ。
私はコーヒーにゆっくりと口をつけ、鞄の中から資料を出した。 相手に説明するためのプレゼン資料と契約書だ。 万が一、資料にコーヒーをこぼしたらまずいので契約書はもう一度鞄の中に戻した。
太った女性が二人、私の右隣のテーブルを目指して近づいてきた。 心の中で『デブ、こっちに来るな』 と念じたが私の願いは叶わない。
狭いテーブルとテーブルの間をでかい尻が横切る。 私は慌ててコーヒーカップを持ち上げ左側に避ける。 案の定、そのでかい尻は私のテーブルの上のトレイをひっかけ、バチィンと床に叩き落した。
『あら、ごめんなさい。』
デブはトレイを広いながら、私のほうを向いて謝罪した。 だが、その巨体はトレイを拾い上げることが出来ない。 カラダが曲がらないことに加えて手が短い。 床まで届かないのだ。 まあ、別にトレイが無くてもコーヒーは飲めるから拾ってくれなくてもこちらは困らない。
『うんしょ、うんしょ』
息も切れ切れになんとかトレイに触る段階まで進んだデブは、トレイを掴むことが出来ずに文字通り悪戦苦闘していた。連れのデブも私が拾おうか?と差し出がましい申し出をしている。どっちでもいいよ。早くその巨体を退けてくれよ、と言いたくなったがぐっとこらえた。 彼女がトレイを拾い上げるまで私はコーヒーカップを持った状態をキープしなければならなかった。
悪戦苦闘のデブはその後も私のテーブルをがちゃんがちゃんと揺らしながら、ようやくトレイを拾い上げた。 顔には一試合を終えたスポーツ選手のように汗をかいている。
『はあ、はあ、やっと取れた。』
感嘆とも報告とも取れるようなセリフを吐き、ようやく騒動は治まった。 私はテーブルに置かれたトレイの上にカップを戻す。 デブは私にもう一度、お騒がせしましたと頭を下げた。 私はそれに笑顔で答える。『気になさらずに』
時計を見ると約束の時間まであと20分少々だった。 ゆっくりと残ったコーヒーを飲もうとカップを口に近づけた。 と、その時。
ドスン
デブの大きな尻が私の右ひじに当たった。 一瞬、何が起こったか分からなかった。デブは私を振り返り大慌てで
『あ~!すみませ~ん!!! 大変、大変!!』
と大声を出した。
カップに残ったコーヒーは私の白いワイシャツの胸の辺りに零れた。 怒りがあたまのってっぺんまで血を滾らせた。 店内の客もこちらを凝視している。 デブは鞄からハンカチを出しながら
『トイレに行こうと思って立ち上がったら、あたっちゃいました。』
と理由なのか言い訳なのか分からないセリフを吐いた。
私は無言でデブからハンカチを奪い取ると胸に広がるコーヒーのしみを拭いた。 が、時既に遅しだ。びっしょりと茶色いしみを付けた私の純白のワイシャツは『ステキなベージュのシャツですね。』 と言われそうなくらい色を変えていた。
『どうしましょ、どうしましょ? あの~。弁償します。』
と、鞄から財布を取り出そうと椅子に座りなおした。 と、その時又、デブのカラダが私に当たる。あ~あ~、何度もすみません、と謝るが私の怒りは頂点に達していた。
『気にしないでください。』
怒りを面に出さずに搾り出した一言だった。 騒動に気付いた店員がようやくノコノコと現れ、濡れたお絞りを持ってきた。 その濡れたお絞りで拭いたところでしみの部分を広げるだけだった。
時計を見ると約束の時間まで5分少々だった。 私はしみを取ることを諦めた。
『あ、もう行かれるんですか?』
席を立つ私のジャケットのポケットにデブがお金をねじ込んだ。私は無言でその場を立ち去った。これ以上デブを見てると暴言を吐きそうだったからだ。 結局260円分くらしかコーヒー飲めなかったな、とケチな事を考えていた。
先方の事務所が入るビルの自動ドアの前に立ち、ガラスに写った自分の姿を眺めてみた。 どう考えてもベージュのシャツには見えないな。
受付で担当者を呼んでもらう。 受付の女性の視線は私の名刺でも顔でもなく胸に広がる茶色いしみを突き刺していた。 応接室に通してもらい先方が現れるのをじっと待った。 胸の辺りが気色悪い。 やがてドアをノックする音に続き担当者とその上司が現れた。
『あら、ヤマシタさん。どうしたんですか?』
担当者はすぐに私のベージュのシャツに気がついてくれた。 私は事の一部始終を話した。
『今度、あの女を見かけたらダイエットするようにきつく言おうと思います。』
そこで、ようやく先方の二人も笑ってくれ場が和んだ。
『そう言えば、弁償するって言ってポケットにねじ込まれたんだった。』
とようやくそのことを思い出し、私はジャケットのポケットから紙幣を出してみた。
『いくらくらいくれたのかな?』
と担当者も興味津々だった。 結論から言うとデブが私のポケットに入れたのは紙幣ではなく、その喫茶店のクーポン券だった。先方の二人は笑いながら、こりゃ災難だったねぇ、クーポン券じゃシャツは買えないねぇ、と言った。
無事に商談を終えてその事務所を後にしたが、私はもう一度あの喫茶店に行ってみることにした。 ワイシャツを1枚ダメにされたのに、そのお詫びがコーヒーのクーポンだと! 馬鹿にするにも程がある。
まだ居ますように、と微かな期待を胸にもう一度あの喫茶店に戻ってみた。 先ほど私が座っていたテーブルまで行くとデブが二人まだ座っていた。 よっしゃ。 私はデブに近づきクーポン券をテーブルの上に叩き付けた。 デブは私を見上げ驚いた顔をしている。
トレイの上を見ると飲み干したカップとスティックシュガーの空き袋が4本、くしゃくしゃっと置かれている。砂糖を4本も入れたのか! この時点で私の怒りはMAXになった。
『ちょっといいですか? 先ほどの件ですがこんなもの頂いてもどうしようも無いんですけど。シャツを弁償するといってクーポン券っておかしくないですか?』
一気にまくし立てた。 しまった!言ってしまった!と思ったがもう遅い。デブはおろおろしている。 口をパクパクさせ、何かを言おうとしている。私はデブが何かを言うのを待った。 少しの沈黙の後、デブがようやく口を開いた。
『申し訳ありません。現金が無かったのでせめてと思いクーポンにしました。』
『こぼしてしまったものはしょうがないと思いましたし、あなたもわざとやったわけじゃ無いでしょうから、事を荒立てるつもりもありません。でもコレはあんまりでしょう?』
『すぐに銀行でおろしてきます。』
このあたりで私の怒りは収まった。 言いたい事を言ったことですっきりしたのだ。 だから私はデブがお金を持ってくる前にこの場を立ち去った。 公衆の面前でどなられた上に現金までむしりとられたら可哀想だからな。
帰り道、駅の近くで新しいワイシャツを買い、着替えた。 まあ、トラブルはあったが商談もまとまったし、気分を切り替えよう。 事務所に戻り、残務処理をしたのち帰宅した。
家に帰ってからその出来事を話した。 妻からは、そんなヤクザみたいな事言って怖がらせてどうするん! もう二度とやめてよね! と逆に怒られた。
数日後、契約後の打合せのため再び先方の事務所を訪れた。 あの喫茶店の前を通るときにそれとなく中を覗いたらあのデブがいた。 向こうも私に気がつき、慌てて外に出てきた。
『あの、先日は済みませんでした。 これ、お会いできたら渡そうと思って。』
そう言って彼女は封筒を差し出した。 が、私は固辞した。
『こちらこそ、興奮してたのであんな風に言って済みませんでした。 もう気にしてませんからそれは納めてください。』
『いや、そしたら私の気が済みません。 どうかどうか受け取ってください。』
デブは封筒を私の胸に押し付けた。 仕方なく私は封筒を受け取った。
『あれから2kg やせました。』
デブは恥ずかしそうに告白した。 その仕草がとても可愛くて、愛おしくなっ・・・・・
いや、ならない。 デブが2kgやせたところで、それは海の水がコップ1杯減ったみたいなものだ。
では、と会釈し私はその場を去った。
封筒を見ると 『sugar babe』 とロゴが入っていた。
そんなに砂糖が好きなんかい!
アマトウ
合掌