レバーのようなものを手に
呆然と立ち尽くしていた。
一瞬、自分が何をすべきか
判断がつかない。
ははは、数字の『6』に
見えるなぁ。
と力なく笑ってしまう。
いや、と頭を切り替える。
笑ってる場合ではない。
これが笑って済ませる
問題ならば私はこんなに
困窮しなかったはずだ。
もう一度、数字の『6』に見える
レバーを見つめる。
元々、あった場所に
そっとあてがう。
ははは、数字の『9』に
見えてきたよ。。。
ビートたけしの真似をして
『せ~の、笑ってる場合ですよ!』
とやってみようかと
考えてみたが、やめとく。
話を今日の朝に戻そう。
その日の私は、超がつくほど
多忙だった。
朝礼で簡単な指示を出し
自分は朝一番で約束のある
取引先に向かう。
そこでプレゼンを行い、
次の場所へと向かう。
通常なら朝礼の後、
コーヒーを飲み、トイレで
一仕事終えてから
その日の業務に
取り掛かる私は、
この日に限っては
コーヒーすら飲んでない。
次の客先まで車で
約40分かかる。
昼食を摂る時間はないと
判断し、目的地へと
車を急がせる。
途中で、コンビニに寄り
パンと牛乳を買う。
運転しながらでも
食べられる昼食だ。
ぎりぎり約束の13時に
間に合った。
一日2本のプレゼンは
正直、飽きてくる。
同じ話を2度しないと
ならないから。
だが、先方は私の提案に
興味を示した。
およそ1時間のプレゼンが
終了した後、先方の
社長が登場した。
名刺交換をし、彼の部下が
簡単に報告する。
『ヤマシタさんが当社にとって
非常に魅力的なご提案を
してくださいました。』
その報告を聞き、社長は
満足そうな笑みを浮かべた。
『ヤマシタさんはまだ時間は
大丈夫ですか?
どうですか?コーヒーを
もう1杯?』
私は笑顔で首肯し
社長の雑談に付き合う
意向を示した。
これは、契約になるな。
そう直感した瞬間だった。
だが、この時既に
私のおなかの中では
戦争が始まっていた。
額に脂汗がにじみでる。
あの牛乳だ!
話が長くなりそうだったので
私は意を決して社長に
言葉をぶつけてみた。
『その前にお手洗いを
お借りできますか?』
こうゆうときに、
私は妙なプライドというか
見栄をはりたくなる。
『大』とばれないように
短時間で戻るという
プライドだ。
多分、ほとんどの人が
取引先でトイレを借りる際、
なるべく短時間で済まそうと
するのではないか?
私は教えられたとおりに
トイレに向かう。
散々我慢していたことで
仕事自体は1発で終わった。
まるで日ハム大谷投手の
剛速球のように、
キャッチャーミットに
ズバンッ!と収まるかの如く。
さっと拭いてみたが
ほとんど汚れは付いておらず
拭いた後のティッシュの
美しさが仕事の手際のよさを
物語るようだった。
ほっと安堵の息を漏らす。
タンクの右側にある
レバーに手をかける。
ガチャ。
コロンコロン。
数字の『6』が落ちてきた。
私はトイレの個室で
全身を硬直させる。
短時間で戻る予定が……
どうしよう。
流さずにこのままにして
行こうかとも考えた。
でも発見されたとき
どうなる?
『はい、こちら現場からです。
スタジオのミヤネさ~ん!』
『はい、ミヤネです。現場は
どういう状況でしょう?』
『え~っとですね、
ツチノコですね。
あの幻と言われた
ツチノコです。
私も初めて見たんで
興奮が隠せません!
先ほど報道陣への撮影許可が
降りましたのでその模様を
どうぞ!』
だめだ!
そんなことはなんとしても
避けなければ。
私は思い切って
レバーが付いていた部分を
直接、指でつまみ
何とか回せないか
試みた。
額には先ほどとは
違う種類の脂汗が
浮き出てきた。
時計を見る私が
トイレに入ってから
5分が経過している。
私は意を決して
一旦、応接室に
戻る事にした。
応接室への廊下を
歩きながら、様々な
可能性について考えた。
そもそも『小』の振りを
しようとしていたのだから
発見されても私のせいには
ならないのではないか?
そう考えると、がぜん
そう思えてきて私の心は
軽くなっていく。
『お待たせしました』
と、さも『小』でしたの顔で
席に着く。
『いやあ、綺麗なトイレでした。』
と余計なことを言ってみる。
『ははは、狭かったでしょう?
あそこは社長しか使わないから。』
なに~~~~~!
『たまに従業員が使うと
社長が怒るんですよ。』
『専務、そんなことはないだろう?
私はそれくらいで怒ったり
しないよ。はっはっは。』
震える。
全身が震えてきた。
社長、流石に『大』が
流されずにそこにあったら
怒るでしょう?
ふ、震えが止まらない。
ただ、こう考えた。
社長しか使わないのなら
しばらくは見つからないな。
ああ、なんてポジティヴな
男なんだろう、俺って。
雑談は続くが、話の内容は
まったく頭に入ってこない。
普段使ってない脳細胞を
総動員して作戦を練る。
『ハートブレイク・リッジ』
という映画であの有名な
クリントイーストウッドが
上長に叱責されたときに
こんな名言を言ってたのを
思い出した。
『海兵隊の臨機応変です。』
今、私に必要なのは
臨機応変だ!
専務が席を立った。
『ちょっと、失礼します。』
社長がにこやかに
『トイレだろ?今日は
使っていいよ。』
と声をかける。
え?
いやいやいや。
ダメでしょ?
社長!ダメですよ!
あそこはあなたの聖域でしょ?
専務もにこやかに
『では、お言葉に甘えまして。』
と答えた。
終わった。
私はソファーの背もたれに
深く寄りかかり天井を見た。
もうどうにでもなれ。
社長と二人きりになった応接室に
社長のしゃべる声と、
私の相槌の衣擦れだけが
響き渡る。
もう脂汗ではなく、
大粒の汗が出てきた。
心臓の音が相手に
聞こえるのではないかと
思えるほどだった。
専務が無言で戻ってきた。
私は目を合わせないように
うつむいた。
そっと上目遣いで
専務の様子を伺う。
専務は消え入るような声で
『社長、すみません。
トイレを壊しました。』
なんと!!!!
私の1本は気づかれ
なかったのか?
『どうした?』
『いえ、あの。』
専務は口ごもる。
『流そうとしたら、レバーが
取れてしまって….』
『え~?じゃ、そのままなの?』
『はい。お恥ずかしい。
すみません、ヤマシタさん。
取り乱してしまって。』
急に風向きが変わった。
私は堂々と手のひらを返した。
額の汗が引いていく。
まるで引き潮のように
『え?トイレがどうしたんスか?』
私はまるでマウントポジションを
とった格闘家のように
余裕の笑みを浮かべ
尋ねてみた。
『いや、その…..
レバーがですね。
流すところのレバーが
取れちゃって、そのままに
なってるんですよ。
お恥ずかしい。』
おお、神よ。
今まで心神を怠っていて
済みませんでした。
しんだおじいちゃん。
墓参りサボってごめんね。
シンジルモノハスクワレル
合掌