642発目 じいさんの話。


小学生の頃から白髪頭で、おまけに誕生日が敬老の日だったもんだから、彼のあだ名はすんなり満場一致で「じいさん」に決定した。

 

それだけだと、彼がいじめの対象だったのじゃないかという心配をされる方もいるだろうが、彼に関してその心配はなかった。

 

彼はいじめられないだけの、その外見のデメリットを考慮してもお釣りが来るくらいのスキルがあった。

 

バク転だ。

 

小学生にとってのバク転ができるというスキルは、それはもう神を崇めるかのような扱いになる。 雨が降ってグランドで遊べない日は、みんな争うようにじいさんを体育館に連れて行き、フカフカのマットの上でバク転の仕方を習っていた。

 

とはいえ、そこは11歳の少年だから、指導者としてのスキルは持ち合わせておらず、彼の説明の通りに挑戦しても誰一人としてバク転ができるようになるヤツはいなかった。

 

そんな彼が中学に上がる頃、日本では映画ゴーストバスターズが公開され、RUN-DMCという黒人のヒップホップグループがエアロスミスの名曲「Walk this Way」をカバーしたことで、中学生達は一斉にヒップホップスタイルに身を包むことになる。1984年頃の話だ。

 

とはいえ、そこは田舎町。 都会では簡単に手に入るヒップホップファッションのアイテムなど手に入るはずもなく、ただただブカブカのズボンにブカブカのパーカーを着て、全員がコンバースのハイカットを履くようになる。 少しでも本物に近づこうという涙ぐましい努力だった。

 

全員がまるで制服のように胸に「NEWYORK」というロゴの入ったパーカーを着ていた。

 

じいさんに再度注目が集まったのもこの頃だった。 すでにバク転という妙技で一定の地位を確保したじいさんが更にみんなから尊敬の、いや羨望のまなざしで見られることになった。

 

RUN-DMCから遅れること数ヶ月。 テレビでは風見シンゴが「涙のテイクアチャンス」という楽曲を引っさげて、ブレイクダンスをお茶の間に披露した。

 

ヒップホップスタイルでブレイクダンス。

 

当時の中学生は脳天を打ちぬかれたかのように、このスタイルに傾倒した。

 

とある土曜日の休み時間のことだ。 前日は風見シンゴがレギュラー出演している週間欽曜日の放送日だった。教室はその話題で持ちきりだった。

 

「昨日の風見シンゴ見た?」

 

「見た見た。すげえよな。誰かできるかな?」

 

すると、じいさんはこともなげにこう言い放った。

 

「できるよ。簡単やん。」

 

そういってじいさんは教室の後ろでブレイクダンスを披露してくれた。

 

もちろん、ダンス教室など存在しない田舎町で、どうやってブレイクダンスを会得したのかという疑問はあるだろう。 じいさんの運動神経は並外れていて、ビデオに録画し、何度も見て真似てるうちに出来るようになったのだ。

 

それからというもの、休み時間になると全員がじいさんに頼んでブレイクダンスを習うようになる。 しかし悲しいかな、既に14歳になっていたにもかかわらず、彼の指導者としてのスキルは成長しておらず、誰一人として上達する生徒はいなかった。

 

やがて冬休みに突入する。 田舎町でも映画館くらいはある。 貰ったお年玉を握り締めて正月に公開される映画を見に行くのは、もはや田舎の中学生のルーティンと言っても過言ではなかった。

 

その年の映画といえばジャッキーチェンのスパルタンエックスとプロジェクトAの2本立てだった。 もちろん、都会では既に公開済みではあるが、ここ田舎町ではようやくのお披露目だった。

 

冬休みが明け、学校に行ってみると、そこらじゅうでジャッキーチェンの物まねをしている奴らの姿が目立つ。

 

じいさんがみたび注目を集めたのは言うまでもない。 ふざけ半分でじいさんに向けて繰り出された掌底を得意のバク転でさらりとかわし、蛇拳で応酬したのだった。

 

おおおおお!

 

クラス中に歓声が響いた。

 

次の日からの休み時間は全員がこぞってじいさんにカンフーを習うことになる。 もう勘の良い読者ならお分かりだろうが、やはりじいさんに指導者としてのスキルは備わっておらず、誰一人として拳法を会得できなかった。

 

あれから30年。

 

近所にいた一つ年上の兄ちゃんと横浜駅でばったり会った。東横線の改札を出たところで声をかけられた。

 

「サトルやねえか?」

 

「おお。ヒデキ兄ちゃん。」

 

ヒデキ兄ちゃんとは25年ぶりくらいになる。 懐かしい話の中でじいさんの話になった。

 

「あいつはすごかった。」

 

今でも尊敬をしているようだ。

 

「あいつとは10年位前に旅行で行った石垣島でばったり会ったんよ。」

 

「へえ。石垣島。 そこで何しよん?」

 

「小学校の先生らしいぞ。」

 

先生?

 

つまり、指導者?

 

ああ、神よ。どうしてそんな試練を彼に与えるのですか?

 

あのころのじいさんが指導者として成長していることを心から願う。

 

そうでないと、石垣島の小学生が可哀相だ。

 

もしあの頃のままだとしたら、石垣の小学生は6年とういう歳月をかけて何も会得しないという悲しい人生を送ることになりますよ。

 

 

 

ヨイオトシヲ

 

合掌

 

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